デュッセルドルフのダンス見本市(Tanzmesse)ではずいぶん舞台を見たけど、ちょっと面白いかなというものもあったような、なかったような、という程度の感触しかなかった。むしろケルンのダンス・アーカイヴ(Tanz Archiv)とか、世界遺産にもなっている超巨大な炭坑跡 Zollverein とそこにできた劇場 PACT を見学させてもらったり、そして何より久しぶりにヨーロッパの空気を吸ったというのが個人的には有意義だった。帰りにはフランクフルトに寄ったものの、会う予定だった友達に会えなくなり、いきなり二日間もすることがなくなって、ぼんやり街をウロついていた。やっぱりドイツの食べ物はあまり好みでなく、隙あらばタイ料理や中華のレストランに行っていたが、最後の日に魚料理の店を見つけて入ったら美味しかった。巨大なタラのフライと、白ワイン。隣の席では、昼なのに老婦人が一人でビールを飲んでいてびっくりした。
(←タンツ・アルヒーフ)(←ツォルフェライン)(←冬はスケートリンク
(←フランクフルトの大聖堂)(←タラ)
ところで見本市に来ていたのは99%ヨーロッパ人で、しかもわりと中心から外れた地域の人たちが多かった。ベルギーのベテランらしい振付家が、バッハの音楽で、全員アフリカ系男性のダンサー9人に振り付けたマーク・モリス調の作品に大勢の人が集まっていたりして(一番乗りで中途退出した)、日本ではあまり見ることのできないヨーロッパの「顔」をまざまざと見ちゃった気がした。素朴なのも度が過ぎると犯罪だなと思った。ちなみにこの前ベルリンで見たジェコ・シオンポは冬にも欧州ツアーが予定されているのだけど、コーディネーターがオランダの人で、民族博物館のホールとか、民俗芸能専門の劇場とかを次々に回ることになっていて、それが一体どういうことを意味するのかジェコ本人がまったく気付いていないと、この夏のツアーをコーディネートしたタン・フクエンが嘆いていた。アメリカにも驚くほど保守的な「田舎」があるように、ヨーロッパも奥が深い。ぼくらはこういう世界に生きているんだ、と改めて実感した。
ドイツに行く前、岩波現代文庫で再刊されたばかりの

大阪ことば学 (岩波現代文庫)

大阪ことば学 (岩波現代文庫)

を読んでいた。大阪弁特有の言い回しの分析から文化の性格を見ていこうとするもので、エピソードがいちいち面白い上に説明も説得力があって、一息に読めてしまう。例えば

どこの動物園でも、トラなどのオリの前には「危険ですから手や顔を近づけないでください」というような看板が出ているが、神戸の王子動物園のオリの前の立て札にはただひとこと「かみます」とあった。このぐらいわかりやすい立て札はない。
かまれたら痛い、血が出る。ひょっとしたら食いちぎられる。そらいかん、近づかんとこ、とだれでも思うのであって、「かみます」と言えば十分なのである。「この動物は季節により獰猛(ドウモウ)になることがありますので、手すりから身を乗り出して手や顔をオリに近づけますと……」というような長ったらしい注意書きが小さな字で三行も四行も書いてあったりすると(実際に東京のある動物園ではこう書いてあったのだが)、「獰猛」の字の小さな振りがなを読むために顔を近づけてガブッといかれないものでもない。「かみます」は立て札の名作である。(72頁)

こういう東西の言い回しの違いを、著者は「公共の場所の表示なのだからあらたまったことばづかいが必要」と考えるのが東京人で、それに対して大阪人は「合理性志向」で「理づめ」なのだという。あるいは「はよせんかいな」というような言い方も、「はよせんかい」に「な」を付けるというところに注目する。

一方では「せんかい」と決めつけておきながら、同時に「それはあんたもわかるやろ」と、相手の肩を抱いてうなずきあうような助詞を付け加えているのである。言わばアクセルとブレーキをいっぺんに踏むような高等戦術を使っているのであって、〔…〕対立によって気まずくなることを避けるために、言いたいこと、言うべきことも言わないで我慢するのが、伝統的な共同体社会で期待される行動様式であったとすれば、大阪のそれは全く正反対である。(57-8頁)

一方で相手との距離をとりつつ、同時に自他の垣根を外す、というレトリックは他にもいろいろ出てきて、言葉がいかにパフォーマンス(著者は「芸」という)するものであるかを思い知らされる。終盤に向けては大阪弁と「笑い」の関係が論じられていくのだが、例えば、相手の呆れた言動に対して「よう言わんわ」と返すのなどを著者は「当事者離れ」とよび、

状況の外に立つ第三者として事態のおかしさを味わおうとする姿勢が濃厚にあり、そこでは非難されるべき当の相手も状況外の第三者の位置に引き上げられるのであって、それでこそ、ツッコまれた側も一緒に笑っていられるのである。(96頁)

なんていう風に説明する。この「当事者離れ」という概念はけっこう拡張されて用いられていて、なかなか奥深い。「あたり前のことをあたり前に言うだけでは恥ずかしい」という気持ちの働きから何か面白おかしく表現してしまう、そういう「照れ」や「含羞」も当事者離れ的な言い回しを誘発する。あるいは、いわゆるボケとツッコミの会話も「ナマの現実から離れておもしろいキャラクターを構想し、その想像の楽しさを増幅してみせるという共同作業」であり、その意味で当事者離れの一種といえる。だから当事者離れは「現実離れ」ともいいかえられる(173頁)。心理学でいう「解離」とか、アガンベンレヴィナスを引いていう「恥ずかしさ」とか、そういうとらえがたい抽象的な心の働きをあくまで具体的に表立って機能させる形式として大阪弁や「笑い」は成り立っているんだと考えると、あらゆる方言や地域語にもまたそれぞれの固有の思想のベクトルがあるのだろうと思えてくる。本の結論部分に出てくる著者の主張は思いがけず深く刺さってしまった。

地域のことばというものは、単なる郷愁の対象として思い出されるべきものではなく、おもしろ風俗として語られるべきものでもない。その地域の人の心のあり方を実現し、支えているものが言語であり、方言である。すべての言語、方言の中に、人間としての普遍的な価値の実現があり、その方言らしいそれぞれの実現の仕方があるのである。大阪の言葉は大阪の文化をどのように実現しているか。大阪の文化の特徴と言えるものはどのような普遍性を持っているか。そういう目をもって大阪のことばを考えていくことは、ことばが咲きにおう大阪という土地に生まれた者の誇りでもある。(194頁)

ここでは、大阪に生まれた人の「誇り」の問題だけではなくて、他の文化にどう接するかということに対する至極明解な指針が説かれていると思う。「郷愁」は自閉でしかないし、「おもしろ風俗」はエキゾチシズムでしかない。そうではなくて、まずは「普遍的な価値」の「それぞれの実現の仕方」という前提に立ってみるということだ。これは解釈学のような科学的理論としては古めかしいが、異文化との付き合い方のモラルとしてはすごく同時代的なものに思える。
そういう前提で、ヨーロッパ人のオリエンタリズムレイシズムは一体どのような「普遍的な価値」を実現しているのか、と考えてみることもできる。もし、有り体にいって恐怖や好奇心や欲望や搾取や自己同一性の強迫の解消・充足がそれなのだとすれば、非ヨーロッパ人側としては、彼ら彼女らのそういう心理とどう付き合っていけばいいのだろう。それが彼ら彼女らの文化なのであってみれば、ひとまずはそういうものとして理解し、受け容れざるを得ない。
その上で、では彼ら彼女らに合わせるのではない仕方で、いかに良い対等な関係を作っていけるのかと考える。すると、彼ら彼女らに恐怖や好奇心や欲望や搾取の対象としてではなく(そしてもちろん同類としてでもなく)、個々の文化の中の「普遍性」を提示してみせる以外にないだろう。自文化への自閉を警戒しつつエキゾチシズムを解体するという作業を積極的に行わなければならないことになる。それは当然、非ヨーロッパ人が自身の文化を「郷愁」の対象や「おもしろ風俗」としてではなく「普遍的な価値」の「それぞれの実現の仕方」として捉え直す作業でもある。これがヨーロッパ人にとっても、非ヨーロッパ人にとっても、もう避けて通れない課題だと思うし、他のあらゆる力の不均衡のあるところにおいても同じことがいえるだろう。表面を取り繕って、当たり障りなきよう関係を維持していたって、都合の悪いものが陰に隠れるだけで、何も変わらない。

デュッセルドルフの Tanzmesse(ダンス見本市)というのに呼んでもらった。とはいってもタンツメッセに参加するのが主目的ではなく、ノルトライン・ヴェストファーレン州の広報機関による招聘プログラムで、地域のダンス関係のインフラについて詳しく紹介してくれるというもの。こういうのは最近あちこちでよくやられているが、毎年行っているソウルのは伝統文化の理解を促進させる内容なのに対し、このプログラムは劇場やアーカイヴなどの機関の紹介。初日の今日は劇場とスタジオとアートセンターを兼ねた Tanzhaus という素晴らしい場所を見せてもらった。ここのディレクターのベルトラム・ミュラー氏とは、彼が第一回のトヨタアワードの審査員で来日した時に会って以来。他にもこのプログラムにはルーマニアやインドやベルギーなど各国から振付家やプレゼンターやジャーナリストが参加していて、横のつながりができるのは楽しい。
タンツメッセのショーケース上演はオープニングがフィラデルフィアのカンパニー「フィラダンコ」で、度肝を抜くほど古めかしくベタベタなアフリカン・アメリカン・モダンダンス。タンツメッセ自体がアメリ国務省のバックアップを受けていて、その関係のようだが、要するに今アメリカは中東でのイメージを回復するためソフトパワーによる文化外交を大展開中らしい。アフリカ系なのでそれなりに楽しく場を盛り上げていくのだけど、そういう「楽しさ」自体を政治の道具にするのがアメリカという国の伝統で、いままさに自分がそういうプロパガンダを浴びせかけられているのだと思うととても客席に身を置き続けることはできず途中で出た。こういう見本市のような場では商品価値こそが全てなので、文脈に応じてダンスが帯びてしまう意味合いなどは、ないことにされる。純粋な「商品」にまで切り詰められた「作品」はまさに「意味」を欠いている。つまりそれ自体としては人畜無害で、人が生きる世界に対して何も引き起こさないし、引き起こせないように見える。しかし実は、そのように無力で、不能であることは、イノセントであることをまったく保証しない。それはつまり、ただ単純にイノセントであろうと自ら務めるものも、決してイノセントであることなどできないということでもある。
デュッセルドルフの前に、二日間だけベルリンにいた。Tanz im August でジェコ・シオンポの『Terima Kost』のフル上演を見るのが目的だったが、昼間にリベスキンドユダヤ博物館へ行った。過剰に劇的な建物のイメージしか持っていなかったけど、「ホロコースト・タワー」と名付けられた有名なヴォイド(何もない空間)がまず凄かったし、だんだん展示にも引き込まれてしまった。建物の複雑な造形自体が、来館者の身体的な「経験」を最大限に引き出そうとするものである上に、展示の内容が単なる陳列ではなく、いちいちが来館者への生々しい「問いかけ」になっていて、だんだん身につまされて考えながら進んでいかざるを得なくなる。建物が丸ごと一つのインスタレーションであり、教育装置でもある。コースの終盤近く、ハンナ・アーレントのインタヴュー映像に強烈なインパクトを受けた後、「トルコがEUに加わることに賛成ですか、反対ですか」と来館者に向けて問うている一角があって、その辺りでもうこの建物全体に凝縮されている強い現実感覚に打ちひしがれてしまった。歴史を対象化してしまわないで、今あるこの世界の現実性として受け留めていくんだという意志にリベスキンドは見事な建築的造形を与えていると思った。これが「芸術」というものだとすれば、それはどこにでもあるようなものではないし、だからこそ「芸術」なのだろう。
その日の夜にジェコ・シオンポを見た時も、昼間の余韻を引きずっていた。ベルリンでは初めての公演なのに、250くらいの客席は二日間とも満員完売。舞台も素晴らしかったが、アフタートークも知的に充実したもので、司会のヨッヘン・ローラー(振付家)は、前回のハンブルク公演で出た評の中で唯一の酷評をわざわざ取り出し、「こういうものに公の場で反論する機会は振付家にはなかなか与えられないからね」と言って、ジェコ本人に読んで聞かせた。内容は、ジェコの作品は「中途半端な欧米かぶれ」に過ぎないというようなもので、暗に「パプア人ならもっとパプア人らしくしろ」と言っているような、程度の低いものだった。ジェコはあまり正面切って反論できていなかったが、その場にいた誰もが内心で容易に反論していただろうと思う。当地ではほとんど実績のない、よく知らないパプアの振付家の公演が完売になって、しかもこんなに高度なトークが行われて、ただ楽しかったとか楽しくなかったとか、そんな人畜無害な娯楽としてダンスを消費してしまうのではなく、現実の世界との向き合い方を鍛え、共有する機会として受容することができる人々の成熟ぶりはどれだけ賞賛しても足りないものだと思った。(その翌日が「見本市」のフィラダンコだから、たまったものじゃない。「芸術のための芸術」が悪いのではなくて、そもそもそんなものは存在しない。)

午後はずっと駅前のスタバにいた。少し前から普通のドリップコーヒーが二杯目は100円なので(どのサイズでも)、長く居座りたい場合はスタバ。Facebookのチャットで珍しい人がオンラインになっていたので、捕まえて色々相談する。まず韓国で、世代が近くてカッティングエッジなダンス批評をやっている人を何人か紹介してもらえた。10月のフォーラムの前に早めに現地入りして次々に会う段取りを依頼。東南アジアのような知的水準の批評家たちのネットワークが北東アジアでも作れないか。それと、9月の手塚さんとのリサーチの相手探し。朝鮮の伝統舞踊のことをよくわかっている若手の振付家がいいと思うけど、コテコテのダンス畑の人だと、手塚さんと話が噛み合わないのではないかという危惧があり、悩みどころ。
勤務先の大学の学長が今度の高崎市長選に出馬するというニュースが入って来た。秋に学内で「夜」のイヴェント(アルコールとかDJとかの絡むイヴェント)を計画して、企画書を出してたのだけど、消えてしまうだろうか。

やっと夏休み。最近は「各学期15コマずつ授業やること」という文科省の指示で8月頭まで大学の授業が食い込んだりしているけど、研究のための時間を最大限確保するためあれこれ抵抗している。期末レポートなんかも、それなりにモチヴェーションのある学生のだけを読めば済むよう工夫した(ハードルが複数あり、しかも異様に高いので、提出率が低い)。とくに非常勤先(桜美林大学)なんかは、無闇に人が集まらないようシラバスの段階で対策を講じたつもりが、なぜか受講者数がグッと増えていて、もし一斉に提出されたらどうしようと思っていたけど、案の定いくらも出ないようだ(予測では30%位)。しかし苛立たしいのは、あちこちから他人の文章を継ぎ接ぎしてレポートを出して来てるやつの「裏」を取るというだけの目的で延々とグーグルしたり、文献を引っくり返したりして時間が経ってしまうこと。わざわざウィキペディアの英語版の記事を自動翻訳機にかけてるのまであって、それは流石に笑ったけど。
これからの二ヶ月で自分のアジア研究をできるだけ進めたい。後期の講義(本務校)では去年に続きアジアのダンスを扱うので、ひとまず自転車操業式でまとめた内容を今年はできれば再構成したい。去年はおおよそ1970年代生まれの若い作家を数人取り上げ、それぞれの個人的なバックグラウンドから、国や民族の歴史を近代から古代まで遡っていくという手法でやってみた。アクラム・カーン(バングラデシュ>インド)、ピチェ・クランチェン(タイ>カンボジア)、ジェコ・シオンポ(インドネシア)、シェン・ウェイ(中国)、キム・ジェドク(韓国)、手塚夏子(日本)。実際は日本のことはほとんどやれなかったので(最初のインドに時間をかけ過ぎた)、日本をアジアの枠組で捉え直す作業を諦めざるを得なかったのだけど、それ以上に、実質的にナショナル・ヒストリー(ズ)に近いものになってしまった点に悔いが残っていて、だから今年はこの6人を横並びに捉え、アジア地域を丸ごと俯瞰でつかみつつその全体の歴史を逆回しにたどって行くような構成に組み換えたい。そうすれば地域間のコントラストや相互関係などもよりダイナミックに見えてきて、複線的な歴史への壮大かつクリアーな視界が開けて来るだろうと思う。これに関しては6月に Whenever Wherever Festival のレクチャーをやった時に、西洋の近代市民社会(バレエ〜モダンダンス)と、アジアの植民地化(古典舞踊の解体と再帰的近代化)の連関を明確にしてみて、地球規模でのダンス史を描くということの可能性をはっきり意識したことがきっかけになった(「原稿」を書くより「レクチャーの準備」をする方が強引にまとめられるので自分に向いてる気がした)。
アジアに関しては他にも二つ計画がある。まず手塚夏子さんとの共同リサーチ計画を準備していて、9月にあちこち出かける予定を立てている。三年前の「アジアダンス会議」に参加して受け取った刺激を手塚さんが育て続けてくれていることも嬉しいし、手塚さんとぼくとでは関心のベクトルが交差しつつも重なりはしなかったりするので、つかず離れずの距離感で「アジア」について言葉をやり取りできてありがたい。もう一つは、韓国の SIDance Festival と、これとジョイントしている批評家フォーラムで、去年から「アジア企画」を持ちかけてみていたのがこの10月に実現する運びになった。韓国では「アジア」に関してはあまり活発に語られていない雰囲気があり、それだけに開拓精神を刺激される。フォーラムには東南アジアや、イスラエル、オーストラリアの参加者も来るから、「中東」や「アジア太平洋」といったような複数のコンテクストが重なり合って、実体などない「アジア」が言説の溶鉱炉みたいなものになっていったら面白いと思う。

二日目。昼過ぎまで部屋で仕事をして、少し街中を歩いてみる。基地の街(在韓米軍と韓国軍)なので、軍服の人がけっこういる。あとなぜか結婚式場が多く、日曜ということもあってあちこちで式が行われているようだった。14時くらいになって何か食べようと思ったらチェーン店ぐらいしか営業してない。それでも路地に入って行って個人営業の店でデカいチヂミを食べた。客はぼくだけで、店の人が最初、テレビをつけてサッカーの日本戦を流してくれたのだが、ぼくが全然見ないので、今度はアメリカのベタなロックみたいな音楽をかけてくれた。韓国って、日本よりも明確にアメリカナイズされている気がする。
また劇場に向かい、昨日と同じプログラムをもう一度見る。全体に昨日よりクオリティが向上。インドネシア組はダンサーたちのコンディションがより整っていたし、日本組はテクニカルとの意思疎通ができて本来の出来になっていた。ジェドクの作品はこれで4回目。二日続けて見て、観客との関係がどう推移していくかを冷静に観察していたら、ロックやポピュラー系のライヴでよく使われるような空間的・時間的構造やレトリックをダンスの上演にうまく応用していることがよくわかった。
この日は続けて最後のプログラムがあり、アン・ソンスの『春の祭典』(『ROSE』)と、初めて見るロシアのグループ。いずれも興味持てず。アン・ソンスは超絶技巧的な振付でかなり尊敬されているみたいだけど、技術であろうが知性であろうが何でも「量」の問題に還元して「力まかせ」みたいになってしまうのは実に韓国的な価値観で、そういうのは韓国の外に出て行くことは難しいだろうなと思った。そしてそのことが本人たちにはなかなか理解できないだろうとも思った。
フェス全体が終わってレセプション。インドネシア組は、豚肉が怖くてなかなか未知の食べ物に手を出せないので、これはダメだけどこれは大丈夫だから食べてみなよ、と「韓・イ交流」をプロモートする。批評家のJが興味をもってナン・ジョンバンの振付家のエリ・メフリのところへ話を聞きに来てくれた。彼らの出自であるミナンの伝統舞踊はすべてマーシャルアーツが基礎なので、マーシャルアーツが出来ない踊り手は存在しない、という話。そしてどこまでがマーシャルアーツで、どこからが踊りなのかということなど。エリ・メフリにはマッコリを飲ます。キム・メジャは90年代にIDFに出たことがあって、もしかしたらその年にナン・ジョンバンも出ていたかも知れなかった。
その後、また昨日と同じ店で焼肉。サムギョプサル、プルコギなど。豚の皮を焼いて食べるというのは初めてだった。昨日の面子に加えて、フェスの仕事が終わったS、D、そして東野祥子さん、カジワラトシオさん(役職付きの人および出演者と、現場のスタッフやボランティアで分かれて打上げする習慣らしい)。韓国はエネルギッシュにどんどん飲むので楽しい。今年秋の SIDance にずっとプッシュしていたジェコ・シオンポと、ピチェ・クランチェンの出演が決まったという情報が入る。日本はもう経済的に当分ダメだし、文化的にもガラパゴス化(孤立)していて話も通じないので、韓国でアジアのダンスの企画をどんどん広げていきたい。特に北東アジアと東南アジアの間が切れているから、ここをつなげば必ず新しい文脈が開けてくると思う。
その後、D、G、東野さん、カジワラさんと5人でカラオケに移動。日本語の歌は簡単な韓国語訳が出るのだが、韓国語の歌は日本語訳が出ないので、意味がわからないのが残念だった。さらにクラブへも移動。日曜の夜なのでガラガラで、ハングル文字の電飾がサイケデリックに飛び交う中でワケがわからなくなった。そこからさらにホテルに戻ってD、G、Eと部屋飲み。明け方近くになってようやくお開きになり、2時間後のバスでインドネシア組と一緒に空港に向かった。空港では、月曜の朝だというのに、いつものようにデモをやっていた。

二度目のチャンムー・フェス。たまたまIDFと同じ週の開催になってしまって、キム・ソンミの『ボレロ』再演など見逃してしまった。ジャカルタ〜ソウルの便が22時の一本しかないというのも痛い。
週末の「アジア・コンテンポラリーダンス」というプログラム、一番手の韓国の作品は、「儀式」のような構成に少しドラマがあるような作りで、踊りは良かったけど全体に「朝鮮」的なものを神秘化してエキゾティシズムに陥っている印象を受けた。決して珍しいパターンではないけど、こういうのを韓国の人たちはどんな心理で見ているのだろう。二番手がナン・ジョンバン。一組目の印象が尾を引いて、伝統主義(あるいは文化的アイデンティティやナショナル・プライド)と、エキゾティシズムは、紙一重(あるいは、ねじれて一致してしまう可能性のあるもの)だという矛盾について考えながら見てしまった。そして、こういうことはインドネシアではあまり考えたことがなかった(あらゆる文化が絶えず相対化されてしまうので、その場の全員で何か一つのものに浸るというようなことがイメージしにくい)ということにも気付かされ、韓国でナン・ジョンバンを見たことはとても良い経験になった。三番手は東野祥子で、『E/G』は初演時と全然違うものになっている。あるシーンで、客席にいっぱいいた子供にすごくウケていた。ウィジョンブ市は都心から少しだけ離れた埼玉みたいな土地で、しかも地元の人が見に来ているので客層がソウルとは少し違う。最後はキム・ジェドク。やっぱりメチャメチャに盛り上がった。客席に座ったまま一緒に踊っている人もいてビックリした。
終演後はロビーでチャンムー・カンパニーが大編成の作品を上演。人形を手に持って、やはり何かの宗教的な儀式を踏まえている。ジェドクの新しさについて考えてしまう。伝統系の人たちは、よく「伝統的なものを現代的な感性で」という言い方をするのだが、その「現代的」ってどういうものをイメージしているのかがよくわからない。「いま」がどういう時代なのかということに関する、具体性に乏しい。ジェドクはガクソリをあからさまにブルース・ロックとかレゲエと接続するということをやって、そういう具体性が面白さのポイントになっているなと思った。ジェドクのマネージャーをしているHに、インドネシアの新聞記事を渡した。
一度ホテルに戻り、日本から来ているHさん、アメリカから来ているA、S、韓国のG、Dと一緒に焼肉に行く。Gは何か極端なことばかり言う人だけど、韓国にグレアム・テクニックを持ち込んだユック・ワンスンと、伝統系の大御所であるキム・メジャという大きな二つの流れを対比して、前者はメインストリームで国からもよくサポートされているが、実質的には何も生んでおらず、むしろ後者の方が本当は文化的な英雄なのだと力説された。前者についての評価はさておき、後者については賛成する。伝統文化というのは、単にその国や地域の人のアイデンティティやプライドを守るためのものではなく(そんな排他的で利己的な事情はむしろどうでも良い)、人類全体にとっての財産であると思う。だから創造的に(あくまでも創造的に)引き継いでいける立場にある人は、少しでも引き継いだ方がいいし、それに取り組んでいる人たちの存在はありがたい。
さらにAとGと三人で遅くまで飲んでしまう。インドネシアでは「飲み会」で盛り上がるということがないので、その反動。

新聞の朝刊二誌にIDFの記事が出ていた。Koran Tempo は初日のキム・ジェドクとゴンゾ。英字の Jakarta Post も初日の記事で、インドネシア勢をさしおいてジェドクが場をさらってしまったことに対して露骨に悔しそうな書き方になっている。
その後、午前中からゴンゾ一行とショッピングモールに出かける。姫野さんが早めに帰国するので、一度戻ってTIM近くのインドネシア料理の店で盛大にランチ。「水」と言っているのに「ビール?」と強引に聞き間違える店員に乗せられ、注文し過ぎてしまう。
姫野さんが帰国し、残った面子で近くの蚤の市へ。ゴンゾのメンバーは陶芸、染織など専門分野が多彩なのであっという間に分散。その後、一人でバティックのシャツを買いに出かける。Grand Indonesia というショッピングモールの中にある Alun Alun を人から薦められていたので行ってみる。品物は高級だけど、選択肢はあまりなかった。一点物のバティックはサイズが合わずに諦めることが多い。続いて国際交流基金のYさんに教えて頂いた Pasaraya に行くと、ワンフロア丸ごとがバティック。品揃えも良くて、かなり長居してしまう。ホテルに戻って、ゴンゾ一行と別れ、ギリギリのタクシーで空港へ。
翌朝、ソウル着。Hがピックアップに来てくれていて、ウィジョンブ市へ。夕方の舞台までホテルで仮眠。