ドイツ文化センターでアピチャッポン・ウィーラセタクンの『世紀の光』('06)を見る。広い会場にものすごく小さいスクリーンだったが、始まるとそれほど気にならなくなった。「反復」についての、メタ映画的な映画とでもいったらいいのか、あらゆる意味で次に何が起こるのかわからず一瞬たりとも緊張を解けない。中盤の、夜の屋台村のような場所でギターが弾かれるシーンの、粒立った音の散らばりが、いきなりそのままオフとなって、近くの無人の屋台のようなものを捉えたショット、さらにボールを蹴っている少年たちのショット、そしてそれを眺めているらしき看護婦の集団のショットへと被さっていくところで、画面の中でざわめいている人や物の動きとギターの音とが「交響」しているように感じられて、とんでもなく美しかった。この監督は、たぶんやり過ぎればクドくなるし、抑え過ぎると全て蒸発してしまうというような微妙なことをいつもやっていて、この作品はちょっと明確過ぎる気もしたのだが、終盤近くの、靴紐を結び直す看護婦(三人組)のショットの次に、切り返しの構図で、靴紐を結び直す少年(三人組)のショットが来て、そこに画面手前から先ほどの看護婦たちが入って来るところなどは、映画というものの白々しさを逆手に取ったパフォーマンスで、意味不明な感動に襲われた。とにかく、「形式で語る」というのは、内容で語るというのと違うのは当然としても、形式をただ見せるだけなのでもなく、ある思考(考え)を感覚可能なものにするということなのだと思った。