結城座フレデリック・フィスバックの『宦官提督の末裔』は、クオ・パオクンの台本(?)に興味があって見に行った。そうしたら柴幸男の『スイングバイ』とほとんど同じといってもいいくらい似た舞台設定で驚いた。前者は現代の(シンガポールの)会社のオフィスで働くサラリーマンが明の時代の鄭和(=宦官提督)の大航海を夢想するという舞台設定で、後者では「会社」という組織および建物が「人類史」のメタファーとして扱われる。反復される日常と歴史のスケール感を突き合わせる構造が似ているだけに、『宦官提督の末裔』という戯曲がもっている意味の厚み、リアリティに比して、『スイングバイ』の悲惨な薄っぺらさを思った。宦官提督の「末裔」というのはもちろんシンガポール国民のことを指していて、シンガポール国民の日々の現実にあえて壮大な歴史のイメージをぶつけて「ありふれた日常」なるもののイメージを足元から引っくり返そうとするところに、演劇という虚構の力がある。現在のシンガポールについて歴史的に思考しようとする。それに対して『スイングバイ』で扱われる歴史は、ほとんど空疎な「情報」の集積でしかなく、むしろ学校で教わった「どうでもいいこと」を同世代の人間同士でシニカルに確認し合うためのネタという方が相応しいようにすら思える。現に歴史を生きながら、決してリアルに歴史観を持とうとはしない人々、それが日本人なのだと思う。『宦官提督の末裔』と『スイングバイ』を両方見る人がどれくらいいるのかわからないが、そのこと自体、つまりマーケティング的な動機によって観客層が分断されているということ自体、こうした歴史意識の欠落とも無関係ではない。世代が分断されると歴史も分断され、歴史が分断されると国民意識も弱くなる。もちろんこんなに国民意識が稀薄なままでやって来られたのもUSAのおかげであって、先はもう長くない。

翌日、京都へ白井剛を見に行ったらTさんに会って、この辺りの日本の新しい演劇の話になった。ジャーナリズムは出来事を「ブーム」や「世代」で括りたがるけれども、そうすると誰もがその全体丸ごとに対して「のるかそるか」の対応へと引きずられがちになって、個別にしっかり見るということがしにくくなるとTさんは言っていた。その通りだと思った。例えばしばしば一括りにされがちなチェルフィッチュとそのエピゴーネンたちの間には、ぼくの中では歴然としたボーダーがあって、とてもではないが「世代」や「ブーム」なんていう表層的な指標でもって一括りにすることはできない。それは岡田利規パフォーマーの身体にものを語らせているのに対して、エピゴーネンたちはどれだけ演劇の形式に手を加えてみてもつまるところは事前に作成したプログラムを舞台上でランさせることしか出来ていないという、とりあえずこの一点に尽きる。だから少なくともぼくにとっては、チェルフィッチュは80年代生まれの若い世代などよりもはるかにDA・Mの方に近く、また手塚夏子や白井剛との近さの方が有意味と思える*1

*1:ついでに(おそらく誰も話題にしていないので)書き添えておくなら、今年1月のDA・Mの公演は凄かった。4人がバラバラのルーティンワークを即興でひたすら持続するストイックな構成で、1時間が異様なテンションのまま過ぎた。ここまで身体を使い切った舞台はダンスでもここ最近見かけることができない。