ワンダーランドの「劇評を書くセミナー」で、佐々木敦さん、水牛健太郎さんとともに“私の考える劇評”について喋った。ぼくはお二方ともに今回初めてご一緒させて頂いたのだけど、意外と話があちこち転がり、セミナー全体の目的にはそれなりに資する内容になったんではないかと思う。最初は何も話すことなんてない気がしていたけど、アゴラの野村政之さんのコーディネートと司会に明確な動機と指針があったのと、佐々木さんが最初からフルスロットルで飛ばしてくださったおかげで、自分もつられて積極的になれた。

でも現場では何かあまりクリアーに言えなくて、後ですぐ整理できたことが一つあったので書いておきたい。それはつまり、佐々木さんがチェルフィッチュの『わたしたちは無傷な別人であるのか?』の例の即興の部分について、その場面の可変性はあくまで「確率論的な」水準に関わる問題であり、「一度しか観ていない」限りはその出来事は「まだひとつきりでしかない」と書かれているのを(『ユリイカ』2010年3月号)、それはやはりどちらかといえば「演劇寄り」の見方であって「ダンス寄り」の見方はまた違ったものであり得るだろう、というようなことをぼくは勇み足気味に口走ってしまったのだが、あそこで言いたかったことは、要するに「複数回見ればその度毎に違っている、ゆえにそれは即興で演じられている」という認識は、経験というよりは推論に基づくものであって、また演出家による「仕掛け」の水準にフォーカスを絞った見方だ。しかし少なくとも「ダンス寄り」な見方からすれば、まず素朴には「複数回見なければ即興であるとわからないのであれば、その仕掛けには全く効果がない」という判断の方が大きな意味をもつと思う。つまり「ダンス寄り」の目は、経験の内実をこそ最大限に重視しようとするものではないだろうか。

しかし問題はこの先にある。つまり、役者が即興をやっているのにその効果がどこにも反映されないなどということがあり得るだろうか、ということだ。実をいえばぼくはSTスポットと横浜美術館でそれぞれ見て、二度目の時に「みずきちゃん」と「ナレーター」と「三人目」を演じる役者が違っていることに気付いたのだが、それが即興だという事実は後から教えてもらって知った。つまり即興を演じている役者のテンションに気付くこともなしに見ていたわけで、これは「ダンス寄り」の目にとっては決定的な敗北と言うべきなのであり、己の怠惰を恥じこそすれ「即興の効果がない」などとは口が裂けても言いたくない。舞台で即興が行われている時に出来事の細部を見ていなかったのは自分の方なので、だからもっときちんと見なくてはいけない。たとえ見るのが一度きりでも即興かそうでないかぐらい普通は見ればわかるのだ。あるいは少なくとも「見ればわかるはずなのだ」と思っていなければ、ダンスを楽しむことなどできないだろう。

もちろんその場限りの出来事の「一回性」をそのまま「複数性」(「見る度に違うはずの」もの)という意味に変換して理解する方が、いわば常識的なものの見方である気がする。けれども、目とその経験への批判ということにかけては、演劇を見ている人よりもダンスを見ている人の方が、はるかに強い関心をもっていることは確かだと思う。演劇の方が、作品の同一性(恒常性)に依拠する度合いが相対的に強く、ダンスはもっと上演の非同一性(二度と繰り返せないものという性格)の方を重視する傾向にあるだろうからだ*1

そういうわけで、佐々木さんが「演劇とダンスをあまり分けて考えない」とおっしゃったのに対し、ぼくはダンスに固執しているとわざわざ天邪鬼に主張してみたのだった。

*1:セミナーの時に、この上演を見たドイツの(日本語は解さない)人の、「舞台のあらゆる部分が震動している(vibrant)ように感じた」という感想を紹介したのは、これが実に「ダンス寄り」の見方だと思ったからで、つまり即興であってもなくてもあらゆる部分がすでに「震動」していたから、ことさら即興を仕込んだ部分が特に際立つこともなかったのかも知れない、という風に説明したつもりだった。