ユリイカ』の5月号が、なぜかこのタイミングでポン・ジュノ特集を組んでいて[amazon]、公開中の最新作に急き立てられるといったこともないために落ち着いて(だいたい)全部読んだ。

いわゆる韓国通の執筆者が入っておらず、それだけに映画に描かれた「韓国」に対してどう距離を取るかが人によって様々で、そこが興味深かった。例えば『母なる証明』のラストのバスの中での踊りのシーンについて黒沢清は、「大胆で面白い表現」だと思ったが実際は韓国ではよくあることなんだと聞いてびっくりした、と言っている(84頁)。確かに、夕陽の逆光に包まれながらおばさんたちがバスの中で立ち上がって踊っているシーンは妙に幻想的だけど、ぼくは逆に、あれを独自の「大胆」な表現として受け留めるという可能性の方に想像が及ばなかった。韓国で観光バスに乗ると必ず座席の上からマイクがぶら下がっているし、少し前に、観光客が歌ったり踊ったりしていたら高速道路で大事故が起きてしまって自粛傾向になったという話も聞いたことがあったので、あのシーンはすんなり受け入れられたのだが、見る人によっては確かに相当「シュール」な演出に見えるだろう。他にも、この号のテクストの中には「あれは韓国では普通なのかどうかわからないが」というような断り書き、あるいは韓国と日本の違いや類似についての考察が多く含まれていて、やはり韓国が「近くて遠い国」なんだということと同時に、映画を通して未知の土地に近付くことの楽しさを改めて思った。

ある時期から本当に色々な地域の映画が見られるようになったけれども、「あれは○○では普通なのかどうかわからないが」という迷いみたいなものが真摯に語られることは決して多くなかったのではないだろうか。加藤幹郎ポン・ジュノを「日常生活世界をこれほど丁寧に探求する作家も珍しい」(169頁)と書いているけど、それすらも実は、ポン・ジュノの特質という以前に、そもそもわれわれが韓国の日常生活世界というものに目を引き付けられてしまうほど、韓国についてよく知らないということ、そして(日本と似ているだけに余計)知れば知るほど興味深く感じられるということの、効果なのかも知れない。

そういえば、ぼくも2008年に初めて韓国へ行った時、ダンス関係者たちの前でポン・ジュノの話をした。自分にとって『グエムル』がほとんど初めて見た韓国映画で、そこから韓国への興味が広がっていったから、早くダンスの世界でもポン・ジュノみたいな人が出てくればいい、みたいなことを言った(ちょっと皮肉っぽく響いたと思う)。

高校のころに映画を見まくっていて、映画のおかげで、行ったこともない場所や時代に接することができた。北欧のホテルの内装が例えばどんな風になっているかとか、アメリカの裁判所の雰囲気だとか、パリの夜はどんな空気感なのかとか、そういうことは、映画を通して「知った」。加藤幹郎は『映画館と観客の文化史』('06年、中公新書 [amazon])で、初期の映画館がエキゾチックな異国や古代世界のイメージで装飾されていて、つまり映画というのは「どこか遠いところ」への旅を意味していたのだ、というようなことを書いている(うろ覚え)。このことと、イザドラ・ダンカンが古代ギリシャへ、あるいはルース・セント・デニスが東洋へ、と向かって行ったこととはまさにパラレルだ。初期のモダンダンスは、エキゾチシズムを媒介にして既成秩序からの離脱を図った。

ところで、(あちこちで喋っているけど)自分にとってダンスと「食」は切り離せない関係にある気がしている。ダンスを見るようになってから、食に対する興味が飛躍的に高まった(以前は全く興味がなかった)。もしそこに何か因果関係があるとしたら、ダンスも食物も、外から見ている限りは決して味わうことができず、自分の体に取り入れてから初めてそれが真の相貌を現してくるという共通点はかなり重要だろうと踏んでいる。けれども最近は「食」の他にもう一つ、「旅」という要素がダンスと密着しているような気がしてきた。

BSでやっている『世界ふれあい街歩き』という番組は、毎回一つの街を一人称のカメラと語りで紹介する形式で、すごく楽しい。ステディカムの滑るような動きは、人の歩行の速度より若干遅い感じで、いかにものんびり散歩しているような雰囲気を醸し出しつつ、けれども、一度カメラに捉えられているからこそ画面の隅々までじっくり観察できるのであって、実際には決してこんな風に歩きながら街を眺めることはできないということもわかる。必ず朝から始まり、街の人々の一日を何となくなぞるようにして、夕方に終わる。クルーは4〜5人だと思うが、現地語がわかる人がいて、街の人に話しかけたりする(話しかけている声が全く聞こえないのに、街の人の声はきちんと録れているのが不思議な感じだ)。どこまで仕込みなのかわからないが、いかにも観光的な要素はほとんどない。オクラホマ州の古い街を取り上げた時など、本当に話題がなくて、ちょっと退屈なぐらいだったのだけど、堂々と見せ切っていた。

それで、この3月にヤン・リーピンの『シャングリラ』を見に行った後に、ちょうど雲南の回がHDDに入っていたので見た。ヤン・リーピンは1986年の中国ナショナル・コンペティションで『孔雀の精』というソロ作品を踊って一躍有名になった人だが(Jiang Dong, Contemporary Chinese Dance, 新星出版社, 2007)、『シャングリラ』も彼女のソロが見所で、あとは見かけの派手さとは裏腹に平板なエンターテインメントというよくあるパターンだと思った。でも何が足りなかったのだろうと思いながら、『世界ふれあい街歩き』を見たら、要するに舞台で実際に踊っている雲南の人たちの「息づかい」みたいなものが、照明やら音響やらの効果で完全にかき消されてしまっていたからつまらなかったのではないかと思えた。番組の中でも、楽器の稽古をしている若者とかが出てくるし、多民族が混淆している街の雰囲気も(少し)伝わってきた。結婚式では花嫁がなぜかサングラスをしていたりして、いわゆる習俗というもののそういう不可解な側面も生々しかった。本当に良い「旅」番組だと思う。

もちろん舞台は照明やら音響やらで飾り立てた方が、舞台慣れしていない人々が演技しやすいという事情もあるのだろう。でも、それではせいぜい「観光」にはなっても、こういう濃厚な「旅」の感覚にはつながらないのだ。知らない人の生活というか、生のありさまを、ダンスは強烈に伝えて来る(あるいは想像させる)ことがあって、そこにはごく個人的なことから文化的なことまでが幅広く含まれる。これもダンスの楽しさの重要な要素だと思う。演劇とダンスがどうとか、ダンスと美術がどうとか、そういう類の話とは別に、少なくともぼくにとってダンスは「食」と「旅」という二つのパラダイムと交差している。