本務校の三年生以上を対象とする演習では今年から「パフォーマンス」に関する理論をどんどん吸収していくカリキュラムにした。前期に五つの概念を二週ずつかけて理解してもらい、後期に各自でそれらを応用した研究発表をしてもらう。五つの概念をそれぞれ一冊か二冊の本を中心におきつつ扱っていて、
1)「視線の権力」・・・フーコー『監獄の誕生』
2)「パフォーマンス」・・・オースティン『言語と行為』、ゴフマン『日常生活における自己呈示』(『行為と演技』)
3)「身体化」・・・生田久美子『「わざ」から知る』
4)「想像の共同体」・・・アンダーソン『想像の共同体』
5)「エキゾチシズム」・・・サイードオリエンタリズム
という風に順次進めていき、さらにこれらの理論と関わりのあるサブテクストも読む。バトラー「パフォーマティヴ・アクトとジェンダーの構成」(身体化)、バージャー「なぜ動物を観るのか?」(エキゾチシズム)、柄谷行人「美学の効用」(エキゾチシズム)、森幸一「ブラジルの琉球芸能と主体の構築」(想像の共同体)、小泉恭子「異性を装う少女たち」(想像の共同体)など。文献研究も大事だけど、理論は使いこなしてなんぼのものなので、二次文献なども遠慮なく使ってもらって、身近な出来事について批評的な視点から捉えられるようになってもらおうというのがコンセプト。冬から春休みにかけて練りに練った構成で、学んだことがきちんと累積的に活かされるようサブテクストも綿密に配列してある。成果に期待。

金曜は早稲田大学で中島那奈子さんの講演会があって、その対談の相手を務めさせて頂いたのだけれども、そこでドイツから舞踏を研究しに来ているAという若い学生に会って、翌日テルプシコールで再び会った後、HさんKさんKさんと5人で飲んだ。Aはまだ学部生なのだけど、単に舞踏に惚れ込んでいるばかりの人ではなくて、欧米での舞踏研究にはカルチュラルスタディーズ的な視点が欠落しがち(したがってオリエンタリズム的になりがち)であることまで批評的に捉えることができていて、ちょっとびっくりした*1。彼女が純粋なダンスの専門家ではなくてジャパノロジストであることも大きく関係しているのだろうけど、この若さでここまで認識がアップデートされているというのは「新世代」を感じずにはいられなかった。郡司正勝が舞踏に与えたナショナリスティックなイデオロギーについてもわかっているし、「国体」の概念とかまで話が通じる。どういう教育を受けたらここまで濃厚な21歳が生まれるのだろう。

ちなみに中島さんはベルリン自由大学のガブリエーレ・ブランドシュテッターのもとでダンスと「老い」についての博論を提出したばかりで、早稲田での講演はその内容について聞くことができた。「老い」(aging)というテーマを軸にすることで、イヴォンヌ・レイナーの2006年の復帰作『AG Indexical』から、花柳寿南海大野一雄までが一つの文脈の中で語れるということの面白さは、新しい研究の地平が開けた感があった。ただ対談の時にも少し言ったのだけど、この後はさらに議論を精密化していく段階が来るだろうとも思った。というか、考える材料をもらったという意味で、すごく刺激を受けた。

つまり中島さんは、「老い」をいわゆる「障害学」の枠組で捉えつつ、近代美学が排除してきた「他者」を社会的に包摂していこうとする昨今のポストモダンアウトリーチ系の芸術実践にとっての有益な例として、日本舞踊や大野一雄を取り上げているようなのだけど、(大野一雄はややこしいのでとりあえず別にするとして)少なくとも日本舞踊に限らずアジアの伝統芸能系で見られる高齢の踊り手の「芸の凄味」というものは、「老いても踊れる」「“健常者”でなくても踊れる」といった価値観とは根本的に異質なのではないか、ということを考えた。伝統芸能系の厄介なのは価値基準が曖昧なところで、端的には「年功序列」みたいな社会秩序とか「芸道」みたいな人生論と、(若い踊り手に対しては厳しく適用されるはずの)芸の巧拙とを明確には分けたがらないために、色々な要素が曖昧模糊とした「迫力」みたいなものに還元されてしまいがちである。花柳寿南海にしても、凄いなと思ったこともあるし、普通に腰が弱ってるじゃんと思ったこともあるけど、腰が弱っていても、それでも踊る(「踊れる」)ということの迫力にやられてしまう人の気持ちは一応わからないでもない。でも、個人的には、本当に感動するのは高齢のダンサーにしか出せない踊りの強さであって、それは若いダンサーが表層筋を使って動いてしまうところを、老いたダンサーは骨に近い深層筋のみでミニマルに動けるがために、動きが純化されて厳しくソリッドに出てくるという、ごくごくフィジカルに説明可能なことなのである。そしてそういう踊りは、ただ年を重ねれば誰にでも出来るというものでは決してないから、「障害」とその克服という問題には還元し切れない。

するとポスト近代美学的な帰結としてのアウトリーチ系の実践は、伝統芸能における「芸の凄味」に対してはどこまでも盲目であり続けるということになるだろう。なぜならアウトリーチは、「老い」や「障害」といった「他者」を積極的に包摂しようとするだけであって、その基準はもはや美学ではなくて倫理学でしかないだろうからだ。そういう質問が会場からも実際に出ていた。障害者を舞台に乗せて特権化することは、障害者が実社会では特殊な排除を受けることと表裏一体でしかあり得ないのではないかと。もちろんそれに対して中島さんはきわめて適確に回答していた。つまり(本人の言葉通りではないけど)舞台芸術は、観客を思考させつつ、新しいものの見方や考え方を生み出していく機会となるのだ、と。語弊をおそれずにいうなら、こうした啓蒙装置としての「芸術」という観念こそ、近代ヨーロッパの成熟した市民社会に特有の文化だろう*2。この「芸術」の、人を思考させる力を「パフォーマティヴィティ」とよぶとすれば、さしあたりこれと対置されるのが、「芸能」でいうところの「芸」であると思う。「芸能」というのは何だか捉えどころがないが、一種の娯楽としての性格が強く、また生活上の価値観とより密着していると思う。端的には、例えば「踊れる」「踊れない」とかいったレヴェルのものは「芸」とは見なされず、誰も金を払わないだろうということは確かだ。

しかしそこまで考えたところで新たな疑問が生じる。つまり、ヨーロッパのポスト近代的な「芸術」としてのアウトリーチ的価値観と、「芸能」の価値観とは本当に相容れないのだろうか、ということだ。例えば、アウトリーチは近代美学が排除してきたものに対するオブセッションを中和しようとしている段階に過ぎず、そこに留まっている限りは高尚なアートの域を超えることはない。アートが本当に社会的な意味をもつ国はいいが、そうでない国でそれを真似しても虚しい。しかし実は、アウトリーチ的な実践もまた、少なくとも潜在的なヴェクトルとしては、芸能において求められる「芸の凄味」を到達目標にできるのではないか。「老いた身体」や「障害のある身体」を単に社会的に包摂するばかりではなくて、またそのために美学を倫理的基準に置き換えつつ上演がもつ力の根拠をパフォーマティヴィティに帰するのではなくて、異質な身体がそれぞれの独異な「芸の凄味」へと達することをこそイメージしてみたい。別に古典芸能でなくても、何か神がかった圧倒的な「凄味」に至ることはできないか。「老人」のみならず「障害者」においても、単に「踊れる」のではなく「凄い」ダンスを踊る達人が現れることを、人々はもっと求めて良いのではないか。そこではじめて人々の美的な価値観の枠は本当に突き破られる。そういう踊りに出会ったことはまだない気がする。

*1:もちろん日本の舞踏研究にはもっと欠落しているけど。

*2:そしてそれは、ヨーロッパを離れてはほとんど機能していないことは明らかだと思う。少なくともヨーロッパ以外の地域では、何か政治的に切迫した状況がある場合を別にすれば、エリート主義的でマイナーなものに留まってしまう傾向にある。