デュッセルドルフの Tanzmesse(ダンス見本市)というのに呼んでもらった。とはいってもタンツメッセに参加するのが主目的ではなく、ノルトライン・ヴェストファーレン州の広報機関による招聘プログラムで、地域のダンス関係のインフラについて詳しく紹介してくれるというもの。こういうのは最近あちこちでよくやられているが、毎年行っているソウルのは伝統文化の理解を促進させる内容なのに対し、このプログラムは劇場やアーカイヴなどの機関の紹介。初日の今日は劇場とスタジオとアートセンターを兼ねた Tanzhaus という素晴らしい場所を見せてもらった。ここのディレクターのベルトラム・ミュラー氏とは、彼が第一回のトヨタアワードの審査員で来日した時に会って以来。他にもこのプログラムにはルーマニアやインドやベルギーなど各国から振付家やプレゼンターやジャーナリストが参加していて、横のつながりができるのは楽しい。
タンツメッセのショーケース上演はオープニングがフィラデルフィアのカンパニー「フィラダンコ」で、度肝を抜くほど古めかしくベタベタなアフリカン・アメリカン・モダンダンス。タンツメッセ自体がアメリ国務省のバックアップを受けていて、その関係のようだが、要するに今アメリカは中東でのイメージを回復するためソフトパワーによる文化外交を大展開中らしい。アフリカ系なのでそれなりに楽しく場を盛り上げていくのだけど、そういう「楽しさ」自体を政治の道具にするのがアメリカという国の伝統で、いままさに自分がそういうプロパガンダを浴びせかけられているのだと思うととても客席に身を置き続けることはできず途中で出た。こういう見本市のような場では商品価値こそが全てなので、文脈に応じてダンスが帯びてしまう意味合いなどは、ないことにされる。純粋な「商品」にまで切り詰められた「作品」はまさに「意味」を欠いている。つまりそれ自体としては人畜無害で、人が生きる世界に対して何も引き起こさないし、引き起こせないように見える。しかし実は、そのように無力で、不能であることは、イノセントであることをまったく保証しない。それはつまり、ただ単純にイノセントであろうと自ら務めるものも、決してイノセントであることなどできないということでもある。
デュッセルドルフの前に、二日間だけベルリンにいた。Tanz im August でジェコ・シオンポの『Terima Kost』のフル上演を見るのが目的だったが、昼間にリベスキンドユダヤ博物館へ行った。過剰に劇的な建物のイメージしか持っていなかったけど、「ホロコースト・タワー」と名付けられた有名なヴォイド(何もない空間)がまず凄かったし、だんだん展示にも引き込まれてしまった。建物の複雑な造形自体が、来館者の身体的な「経験」を最大限に引き出そうとするものである上に、展示の内容が単なる陳列ではなく、いちいちが来館者への生々しい「問いかけ」になっていて、だんだん身につまされて考えながら進んでいかざるを得なくなる。建物が丸ごと一つのインスタレーションであり、教育装置でもある。コースの終盤近く、ハンナ・アーレントのインタヴュー映像に強烈なインパクトを受けた後、「トルコがEUに加わることに賛成ですか、反対ですか」と来館者に向けて問うている一角があって、その辺りでもうこの建物全体に凝縮されている強い現実感覚に打ちひしがれてしまった。歴史を対象化してしまわないで、今あるこの世界の現実性として受け留めていくんだという意志にリベスキンドは見事な建築的造形を与えていると思った。これが「芸術」というものだとすれば、それはどこにでもあるようなものではないし、だからこそ「芸術」なのだろう。
その日の夜にジェコ・シオンポを見た時も、昼間の余韻を引きずっていた。ベルリンでは初めての公演なのに、250くらいの客席は二日間とも満員完売。舞台も素晴らしかったが、アフタートークも知的に充実したもので、司会のヨッヘン・ローラー(振付家)は、前回のハンブルク公演で出た評の中で唯一の酷評をわざわざ取り出し、「こういうものに公の場で反論する機会は振付家にはなかなか与えられないからね」と言って、ジェコ本人に読んで聞かせた。内容は、ジェコの作品は「中途半端な欧米かぶれ」に過ぎないというようなもので、暗に「パプア人ならもっとパプア人らしくしろ」と言っているような、程度の低いものだった。ジェコはあまり正面切って反論できていなかったが、その場にいた誰もが内心で容易に反論していただろうと思う。当地ではほとんど実績のない、よく知らないパプアの振付家の公演が完売になって、しかもこんなに高度なトークが行われて、ただ楽しかったとか楽しくなかったとか、そんな人畜無害な娯楽としてダンスを消費してしまうのではなく、現実の世界との向き合い方を鍛え、共有する機会として受容することができる人々の成熟ぶりはどれだけ賞賛しても足りないものだと思った。(その翌日が「見本市」のフィラダンコだから、たまったものじゃない。「芸術のための芸術」が悪いのではなくて、そもそもそんなものは存在しない。)