動きの良さとは何か。および欲望=悪意

今日はスフィアメックスでCo.山田うん。期待通り、いや期待をさらに上回って、オリジナリティあふれる特濃振付を満喫。感動した。アイディアとか身体性とかキャラクターとか、そんなのじゃなく、動きを見ることがとにかく楽しい。語彙とその組み立て。ひたすらイイ動きが嵐のように。5台あるロッカーのような箱の、両側に開閉するバネ付き扉さえもがイイ動きをしている。
実に何十日かぶりに本屋へ入って高橋洋『映画の魔』('04、青土社)を買い読み始める。恐怖映画と怪奇映画の違いや、その他諸々のジャンル論など、黒沢清のものとつき合わせて詳しく検討したら楽しいに違いない。臆面もなく躊躇もなくみだらに本質主義に耽溺する人々。恥知らず、とは実は罵りの言葉ではなく、憧れを表現する言葉だ*1
中田監督の本来の資質はやはり健全さの側、人間の側にあるのだと思う。映画館では客席から悲鳴が上がったという。それは恐怖映画を作り続ける者のひとりとして当然狙っていたことではある。だがその悲鳴は人生に深刻な変更を迫るモノだったろうか。映画が終わればすっかりさばさば家路につける程度のモノだったのではないか。(…)なるほど大方は悲鳴を上げる。だが恐怖が根深く突き刺さったわけではない。びっくりしただけだ。玄人衆は余裕の笑いを浮かべるだろう。(…)私は大方も玄人衆も全員なぎ倒したい。」(37ページ)。そして満足の行く結果が出れば「はははは。ざまあみろ。」(47ページ)。欲望それすなわち悪意。見習いたい。
夕方の本郷通りの歩道で、ほとんど動きを停止している老人を見た。一応歩いているのだが、遅すぎて目に見えないのだ。長身で、杖に体重の半分をもたせかけている。動こうとして、どう動いていいか途方に暮れるという状態においては、おそらく持てる感覚の全てが総動員され、自分の体と道路との力学的な関係へと注がれるだろう。歩くことをこんなに深く味わうことができるなんて素晴らしい。これは踊りだ、と言いたくなるが、それは流石に無神経だと思うので言わない。

*1:このことは先日ピカソを見ていて教えられた。