やっと夏休み。最近は「各学期15コマずつ授業やること」という文科省の指示で8月頭まで大学の授業が食い込んだりしているけど、研究のための時間を最大限確保するためあれこれ抵抗している。期末レポートなんかも、それなりにモチヴェーションのある学生のだけを読めば済むよう工夫した(ハードルが複数あり、しかも異様に高いので、提出率が低い)。とくに非常勤先(桜美林大学)なんかは、無闇に人が集まらないようシラバスの段階で対策を講じたつもりが、なぜか受講者数がグッと増えていて、もし一斉に提出されたらどうしようと思っていたけど、案の定いくらも出ないようだ(予測では30%位)。しかし苛立たしいのは、あちこちから他人の文章を継ぎ接ぎしてレポートを出して来てるやつの「裏」を取るというだけの目的で延々とグーグルしたり、文献を引っくり返したりして時間が経ってしまうこと。わざわざウィキペディアの英語版の記事を自動翻訳機にかけてるのまであって、それは流石に笑ったけど。
これからの二ヶ月で自分のアジア研究をできるだけ進めたい。後期の講義(本務校)では去年に続きアジアのダンスを扱うので、ひとまず自転車操業式でまとめた内容を今年はできれば再構成したい。去年はおおよそ1970年代生まれの若い作家を数人取り上げ、それぞれの個人的なバックグラウンドから、国や民族の歴史を近代から古代まで遡っていくという手法でやってみた。アクラム・カーン(バングラデシュ>インド)、ピチェ・クランチェン(タイ>カンボジア)、ジェコ・シオンポ(インドネシア)、シェン・ウェイ(中国)、キム・ジェドク(韓国)、手塚夏子(日本)。実際は日本のことはほとんどやれなかったので(最初のインドに時間をかけ過ぎた)、日本をアジアの枠組で捉え直す作業を諦めざるを得なかったのだけど、それ以上に、実質的にナショナル・ヒストリー(ズ)に近いものになってしまった点に悔いが残っていて、だから今年はこの6人を横並びに捉え、アジア地域を丸ごと俯瞰でつかみつつその全体の歴史を逆回しにたどって行くような構成に組み換えたい。そうすれば地域間のコントラストや相互関係などもよりダイナミックに見えてきて、複線的な歴史への壮大かつクリアーな視界が開けて来るだろうと思う。これに関しては6月に Whenever Wherever Festival のレクチャーをやった時に、西洋の近代市民社会(バレエ〜モダンダンス)と、アジアの植民地化(古典舞踊の解体と再帰的近代化)の連関を明確にしてみて、地球規模でのダンス史を描くということの可能性をはっきり意識したことがきっかけになった(「原稿」を書くより「レクチャーの準備」をする方が強引にまとめられるので自分に向いてる気がした)。
アジアに関しては他にも二つ計画がある。まず手塚夏子さんとの共同リサーチ計画を準備していて、9月にあちこち出かける予定を立てている。三年前の「アジアダンス会議」に参加して受け取った刺激を手塚さんが育て続けてくれていることも嬉しいし、手塚さんとぼくとでは関心のベクトルが交差しつつも重なりはしなかったりするので、つかず離れずの距離感で「アジア」について言葉をやり取りできてありがたい。もう一つは、韓国の SIDance Festival と、これとジョイントしている批評家フォーラムで、去年から「アジア企画」を持ちかけてみていたのがこの10月に実現する運びになった。韓国では「アジア」に関してはあまり活発に語られていない雰囲気があり、それだけに開拓精神を刺激される。フォーラムには東南アジアや、イスラエル、オーストラリアの参加者も来るから、「中東」や「アジア太平洋」といったような複数のコンテクストが重なり合って、実体などない「アジア」が言説の溶鉱炉みたいなものになっていったら面白いと思う。