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デュッセルドルフのダンス見本市(Tanzmesse)ではずいぶん舞台を見たけど、ちょっと面白いかなというものもあったような、なかったような、という程度の感触しかなかった。むしろケルンのダンス・アーカイヴ(Tanz Archiv)とか、世界遺産にもなっている超巨大な炭坑跡 Zollverein とそこにできた劇場 PACT を見学させてもらったり、そして何より久しぶりにヨーロッパの空気を吸ったというのが個人的には有意義だった。帰りにはフランクフルトに寄ったものの、会う予定だった友達に会えなくなり、いきなり二日間もすることがなくなって、ぼんやり街をウロついていた。やっぱりドイツの食べ物はあまり好みでなく、隙あらばタイ料理や中華のレストランに行っていたが、最後の日に魚料理の店を見つけて入ったら美味しかった。巨大なタラのフライと、白ワイン。隣の席では、昼なのに老婦人が一人でビールを飲んでいてびっくりした。
(←タンツ・アルヒーフ)(←ツォルフェライン)(←冬はスケートリンク)
(←フランクフルトの大聖堂)(←タラ)
ところで見本市に来ていたのは99%ヨーロッパ人で、しかもわりと中心から外れた地域の人たちが多かった。ベルギーのベテランらしい振付家が、バッハの音楽で、全員アフリカ系男性のダンサー9人に振り付けたマーク・モリス調の作品に大勢の人が集まっていたりして(一番乗りで中途退出した)、日本ではあまり見ることのできないヨーロッパの「顔」をまざまざと見ちゃった気がした。素朴なのも度が過ぎると犯罪だなと思った。ちなみにこの前ベルリンで見たジェコ・シオンポは冬にも欧州ツアーが予定されているのだけど、コーディネーターがオランダの人で、民族博物館のホールとか、民俗芸能専門の劇場とかを次々に回ることになっていて、それが一体どういうことを意味するのかジェコ本人がまったく気付いていないと、この夏のツアーをコーディネートしたタン・フクエンが嘆いていた。アメリカにも驚くほど保守的な「田舎」があるように、ヨーロッパも奥が深い。ぼくらはこういう世界に生きているんだ、と改めて実感した。
ドイツに行く前、岩波現代文庫で再刊されたばかりの
- 作者: 尾上圭介
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2010/06/17
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どこの動物園でも、トラなどのオリの前には「危険ですから手や顔を近づけないでください」というような看板が出ているが、神戸の王子動物園のオリの前の立て札にはただひとこと「かみます」とあった。このぐらいわかりやすい立て札はない。
かまれたら痛い、血が出る。ひょっとしたら食いちぎられる。そらいかん、近づかんとこ、とだれでも思うのであって、「かみます」と言えば十分なのである。「この動物は季節により獰猛(ドウモウ)になることがありますので、手すりから身を乗り出して手や顔をオリに近づけますと……」というような長ったらしい注意書きが小さな字で三行も四行も書いてあったりすると(実際に東京のある動物園ではこう書いてあったのだが)、「獰猛」の字の小さな振りがなを読むために顔を近づけてガブッといかれないものでもない。「かみます」は立て札の名作である。(72頁)
こういう東西の言い回しの違いを、著者は「公共の場所の表示なのだからあらたまったことばづかいが必要」と考えるのが東京人で、それに対して大阪人は「合理性志向」で「理づめ」なのだという。あるいは「はよせんかいな」というような言い方も、「はよせんかい」に「な」を付けるというところに注目する。
一方では「せんかい」と決めつけておきながら、同時に「それはあんたもわかるやろ」と、相手の肩を抱いてうなずきあうような助詞を付け加えているのである。言わばアクセルとブレーキをいっぺんに踏むような高等戦術を使っているのであって、〔…〕対立によって気まずくなることを避けるために、言いたいこと、言うべきことも言わないで我慢するのが、伝統的な共同体社会で期待される行動様式であったとすれば、大阪のそれは全く正反対である。(57-8頁)
一方で相手との距離をとりつつ、同時に自他の垣根を外す、というレトリックは他にもいろいろ出てきて、言葉がいかにパフォーマンス(著者は「芸」という)するものであるかを思い知らされる。終盤に向けては大阪弁と「笑い」の関係が論じられていくのだが、例えば、相手の呆れた言動に対して「よう言わんわ」と返すのなどを著者は「当事者離れ」とよび、
状況の外に立つ第三者として事態のおかしさを味わおうとする姿勢が濃厚にあり、そこでは非難されるべき当の相手も状況外の第三者の位置に引き上げられるのであって、それでこそ、ツッコまれた側も一緒に笑っていられるのである。(96頁)
なんていう風に説明する。この「当事者離れ」という概念はけっこう拡張されて用いられていて、なかなか奥深い。「あたり前のことをあたり前に言うだけでは恥ずかしい」という気持ちの働きから何か面白おかしく表現してしまう、そういう「照れ」や「含羞」も当事者離れ的な言い回しを誘発する。あるいは、いわゆるボケとツッコミの会話も「ナマの現実から離れておもしろいキャラクターを構想し、その想像の楽しさを増幅してみせるという共同作業」であり、その意味で当事者離れの一種といえる。だから当事者離れは「現実離れ」ともいいかえられる(173頁)。心理学でいう「解離」とか、アガンベンがレヴィナスを引いていう「恥ずかしさ」とか、そういうとらえがたい抽象的な心の働きをあくまで具体的に表立って機能させる形式として大阪弁や「笑い」は成り立っているんだと考えると、あらゆる方言や地域語にもまたそれぞれの固有の思想のベクトルがあるのだろうと思えてくる。本の結論部分に出てくる著者の主張は思いがけず深く刺さってしまった。
地域のことばというものは、単なる郷愁の対象として思い出されるべきものではなく、おもしろ風俗として語られるべきものでもない。その地域の人の心のあり方を実現し、支えているものが言語であり、方言である。すべての言語、方言の中に、人間としての普遍的な価値の実現があり、その方言らしいそれぞれの実現の仕方があるのである。大阪の言葉は大阪の文化をどのように実現しているか。大阪の文化の特徴と言えるものはどのような普遍性を持っているか。そういう目をもって大阪のことばを考えていくことは、ことばが咲きにおう大阪という土地に生まれた者の誇りでもある。(194頁)
ここでは、大阪に生まれた人の「誇り」の問題だけではなくて、他の文化にどう接するかということに対する至極明解な指針が説かれていると思う。「郷愁」は自閉でしかないし、「おもしろ風俗」はエキゾチシズムでしかない。そうではなくて、まずは「普遍的な価値」の「それぞれの実現の仕方」という前提に立ってみるということだ。これは解釈学のような科学的理論としては古めかしいが、異文化との付き合い方のモラルとしてはすごく同時代的なものに思える。
そういう前提で、ヨーロッパ人のオリエンタリズムやレイシズムは一体どのような「普遍的な価値」を実現しているのか、と考えてみることもできる。もし、有り体にいって恐怖や好奇心や欲望や搾取や自己同一性の強迫の解消・充足がそれなのだとすれば、非ヨーロッパ人側としては、彼ら彼女らのそういう心理とどう付き合っていけばいいのだろう。それが彼ら彼女らの文化なのであってみれば、ひとまずはそういうものとして理解し、受け容れざるを得ない。
その上で、では彼ら彼女らに合わせるのではない仕方で、いかに良い対等な関係を作っていけるのかと考える。すると、彼ら彼女らに恐怖や好奇心や欲望や搾取の対象としてではなく(そしてもちろん同類としてでもなく)、個々の文化の中の「普遍性」を提示してみせる以外にないだろう。自文化への自閉を警戒しつつエキゾチシズムを解体するという作業を積極的に行わなければならないことになる。それは当然、非ヨーロッパ人が自身の文化を「郷愁」の対象や「おもしろ風俗」としてではなく「普遍的な価値」の「それぞれの実現の仕方」として捉え直す作業でもある。これがヨーロッパ人にとっても、非ヨーロッパ人にとっても、もう避けて通れない課題だと思うし、他のあらゆる力の不均衡のあるところにおいても同じことがいえるだろう。表面を取り繕って、当たり障りなきよう関係を維持していたって、都合の悪いものが陰に隠れるだけで、何も変わらない。