あらまほしい

今日大学にいたら、学部の合格発表をやっていた。本当に胴上げとかして、それをカメラで撮ったりするのか。初めて見た*1。まあ結構なことではあるが、応援団と調子外れなブラスバンドがうるさくて、何もできないまま5時間ほど悶々と過ごすはめになった。
夜は埼玉へ移動して珍キノコ。最近「家族」のことを考えざるを得なくて、そのせいかすごくジーンと来た。どうして30代の女が「子供」のフリをしてるのか、その辺をめぐる痛切なまでにギリギリなアイロニー。子供の頃のチクッとするような思い出を面白おかしく披露する30代の女。面白おかしく披露してるけど、当時は本気で傷ついたに決まってて、それを大人になったから面白おかしく語れるはずなのに、その語りの体裁はあくまでも(傷ついてない)子供の一人称を装っている。泣かせる。散々仕込まれたバレエを崩すという迂回路を経ることでしか子供を表現できないところは、唐突にKo & Edgeの『始原児』を思い出させた。素で幼児退行している類の、あるいは共同幻想として幼児退行している類の日本の「コンテンポラリーダンス」とは明らかに一線を画す、クリティカルな表現だ。
ずっと前に久しぶりに小説なんか読んだ時に、それはゾラだったのだけれども、何で街並とか夕暮れとかをこんな一生懸命に描写してるんだろうと思った。この事細かな描写は書き手と読み手にとって何の意味があるのだろうかと。いや、事細かに書き込むことで、読み手の脳裡にリアルな像が浮かぶのだというところまでは確かなのだが、「書く」ということが、紛れもなく、「在らしめる」ことであるというところが、もうどうしようもなく神秘的で、凄いと思ってしまったのだった。書けば、それは、現われる。存在せしめられる。ということは、書かないと、それは無いということだ。だから表現上のリアリズムは、実在ではなくて実在「論」に関わっている。そうでなければ「イズム」じゃなくてただの「素(す)」でしかない。リアルに表現するということは、だから、リアルなものをどこかから持ってきて置いておくようなことではなくて、リアルと思われるものをリアル化する(リアライズする)という作為なのだ。リアルではないもの(存在していないもの)を、リアル化(存在化)する。同様に、珍キノコが「ハッピー」とか言ったり書いたりするのも、「ハッピー」ではないから、「ハッピー」だと言ったり書いたり踊ったりして、「ハッピー」をリアル化しているのだ。これが「ベタ」な表現というものだと思う。「ベタ」っていうのは即自的な状態ではなくて、「何重かの反省が折り畳まれていつつ表面的には平ら」という巧妙極まる状態なのであり、そこに「リアル」だけを見て「リアル化」を見ないのは、愚かだと思う。

*1:ぼくは学部は早稲田の文学部で、しかも英語と国語と小論文しか受けてないから、この人たちのような凄い受験勉強とかは全然やってない。高3の秋ぐらいまで文化祭実行委員会みたいなところで遊んでて、もういいやと思いつつ適当に英単語覚えて、古文やって、あとは途中まで世界史をやってたけど間に合わないのが見えてきて捨てたら結局一つしか受けられるところがなくて、受けたら受かってしまった。発表を一緒に見に行った連中からは「何でお前が」と罵られ、罰として、なぜか皆で映画を見に行ってその費用を払わされるはめになったが、しかし何を見るかはぼくがセレクトして良いとのことだったので渋谷シネマライズへ行ってトッド・ヘインズの『ポイズン』を見せてやったのだった。まあこんなことを書くと、うまくいっていいね、イヤミだね、と言われるのはわかって書いてるのだが、苦労すべきところを不可抗力でスルーしてしまうことの悲惨さなど、立派に苦労している人々が容易に理解できるわけがない。