アピチャッポン・ウィーラセタクンの新作短編 Phantoms of Nabua がネットで見れる。映っている内容そのものはミニマムなのに、抽象と具象の間、象徴性と現実味の間で激しくグラついている映画。何よりその危うさに震えが来てしまう。
この前、小谷野さんの踊りを見ていて考えたこと(というかいつも考えていたけどこの度はっきり書き記そうと思ったこと)。色々なダンスで、手に物を持って踊ることが多い。扇子とか、何か棒状のものとか。あれは何なのかというと、たぶん、踊りではなく何かの「行為」としての見かけを得るためなのでは、と思う。何であれ人が手に持つや否やそれは「道具」なのであって、道具を持っている以上その人は何かをしている(行為している)はずであるという、見かけ上のエクスキューズが成り立つ。扇子でどこかを指すとか、パッと開くとか、そういうのはどれも一応何らかの目的に沿った「行為」であるはずだが、実際には断片だけで、本当に何かをしているわけではない。けれどもそれが「動き」そのものを正当化したり、呼び水として機能したりする。何の行為でもないような「純粋な身振り」が「ダンス」と呼ばれるのだとしても、それ自体にはそもそもその身振りが行われる根拠がないし、それを見るに至る根拠もない。だからとりあえず「行為」を装うということが必要になって来るのだろう(この、動く根拠や、見る根拠が必要とされなくなった時、その踊りはスペクタクルになると思う)。もっとも実際には物を持つ踊りに限った話ではなく、例えば「歩行」などは動きを正当化するのには手軽な素材として利用されている。ちなみに「行為」の見かけが「動き」を正当化するというこの原理を今最も高度に使いこなしているのは井手茂太だということを、NHKでやった『排気口』の映像を何度も見直して思った。