逃避

原稿に詰まっているときほど色んなことを考えたり書きたくなる。詰まっているといっても別に行き詰まって書けないというわけではなくてただ集中力がないからすぐ別のことがしたくなってしまってるだけなのはわかってる。よく。

いまは『音楽舞踊新聞』にパークタワー・ネクストダンス・フェスのレヴューを書いていて、そこからの逃避。しかもこれはさらに書籍用の原稿からの逃避。この業界紙はどんな人が読んでいるのかイマイチつかめないのだけど、とりあえず現舞とかバレエの人を念頭に置いて、新しいダンスのことをもっと知ってもらえればいいと思っている。オールスター的なラインナップと、観客動員がものすごかったので(あとパークタワーのUさんが来期からのメセナ事業縮小で「くやしい」と言っていたのが心に残っているのもあって)、これを選んだ。紙面の傾向からいってあまり突っ込んだことは書けないが説明と解釈をコンパクトに。

本の原稿がまた止まってる。企画がスタートしてからもう1年以上、K書房のOくんにはまったく合わせる顔がない。

昨日プライヴェート疲労困憊することがあったので今日は岩名雅記を見に行くのを中止して、ずっと家にこもっていた。学校のバイトが終わってしまった上に定期券まで切れ、おそろしい金欠状態で外出がしづらいということもある。どこかへ行くたびに電車賃がかさむ。

それでも明日は発条トと「六本木ダンスクロッシング」に行くつもりでいたのだが、夕方Sさんの掲示板で「ダンスクロッシング」中止を知る。この前のKさんの公演打ち上げで、森ビルの傍若無人ぶりだとか、「『ダンス』のために無私かつ政治的に立ち回る」という話を聞いたばかりだったので、さぞかし悔しいだろうと思う。あの席には大阪のOさんもいて、個人的なみみっちい利害じゃなく、大文字のダンスへの愛に仕えるという、そういうお二人の姿勢に実は内心いたく感動していたのだった。いわゆる「政治」は今も昔も私利私欲だとかプライドだとか、要するに「(自由主義)経済」のためのエクスキューズで、それはどんな業界だってそうなんだろう。だから本来の意味での「政治」をするんだと。

今回の事件で、今まで森ビルに対して抱いていた漠然としたイメージが形を得た。「SF的妄想に浮かれている子供」だ。六本木ヒルズのあの何ともいえない居心地の悪さの正体は、圧倒的な資力とインテリジェンスを費やして、大人が思い切り遊んだ結果がたかだかこの程度のものなのかというサムさだと思う。カッコイイけど使いづらい。オシャレだけど迷いやすい。超高層だけど中は妙に息苦しい。要するに幼稚なのだ。誰もが、自分の貧困な想像力のありったけを目の前に突き出されたような気分になる。意外性はない。驚きはあるけれども、それは「ああアレがとうとう現実になっちゃった」という感慨に近い。実物大ガンダムとか、『鉄騎』みたいなものだ。だから(本物の)子供という「計算不可能なもの」を計算に入れられない体たらくを見ても、誰も驚かない。むしろ「やっぱり」と思う。「やっぱり子供が浮かれてただけなんだよ(パパ、ママ、どこに行ったの?)」と。「(自由主義)経済」は、大局的な展望や戦略の領域である「政治」の外にあるのだから、やはり「子供」なのだろう。しかし子供が「政治」力を発揮してしまうのが「(自由主義)経済」というフォルムなのだとしたら、「政治」が「(自由主義)経済」を自分の内部で、うまく飼わなければならない。それがたとえばSさんのいう「政治」であり、「六本木ダンスクロッシング」だったのだろう。

ちなみに最近、飴屋法水の『キミは動物(けだもの)と暮らせるか?』(97年、筑摩書房)を読んで感動した。珍獣の飼い方ハウツー本みたいな体裁だが、これはダンス=政治の本だ。欲望する身体/身体への欲望、自己の葛藤に対してどんなスタンスを取ることが適切か、ということについて真剣に書いてある。わかりやすい言葉でデリダみたいなことをいっている。

「六本木ダンスクロッシング」がなくなってしまったので、明日は発条トの後に岩名雅記を見に行くことにした。