映画予告編問題

1日は「映画の日」ということで1000円なので、渋谷のツタヤの上にあるシネフロントという映画館へ初めて行った。感動することがいくつかあった。まず、ここはチケット売場で席を指定して買うシステムになっている。驚いた。これなら時間ギリギリまで他の事をしていられるではないか。そして客席入口のドアの前に高い衝立がある。途中で人が出入りしても光が入らない。
そして何より感動したのは、予告編の間ずっと客電が弱くオンになっていること。客電だけでなく、スクリーンを囲んでいるレトロフューチャーな感じのカラーパイプも点いたままだ。これが素晴らしい。まるで家のテレビのような感覚で予告編を見ることができる。今までどうして予告編は見ていて恥ずかしいのかと思っていたが、謎が解けたかもしれない。つまり、予告編は映画よりもどちらかというとテレビCMに近いセンスで作られているのだ。少なくとも日本の配給会社が付け足しているような部分はそうだ。ポスター付き前売り券の静止映像とか、ヘンなコピーとか。暗闇+大袈裟な音響で見ていると、あのテンポの悪いダサダサ映像にいちいち没入させられてしまうのだが、客電さえ付いていれば平然と見ていられる。まあ実際は、予告編の時間を「客入れ」扱いしているだけだと思うが、いずれにしてもこれは発見だった。客電は本編より一個前の予告編の途中で落ちる(ただし本編開始後も小さく点いたままになっていて、これがちょっと明るすぎる気がした)。この映画館は気に入った。なるべくここで見ることにしよう。
先日チェルフィッチュの岡Pの日記で知って、『現代詩手帖』4月号をみる。約20年ぶりの演劇特集だそうだ。内野儀氏がチェルフィッチュのことを論じているのだが、そこの註で、内野氏は「『内』と『外』という主題性については、最初に指摘したのはおそらく武藤大祐である。〔中略〕詳しくは武藤の運営するサイトdm_on_web 内のチェルフィッチュに関するBBSを参照」と書かれている。ぼくはBBSでそういう指摘をした覚えがない。BBSでは、投稿No.39で映像作家・中泉さとこが「チェルフィッチュは『内と外』がキ−ワ−ドになった。とても映像的だった」と書いたのが最初で、ぼくはその意味が即座には取れずNo.41で聞き直したりしている。確かにぼくは岡田利規演出のなぎさにゆこう公演『恋と自分/とんかつ屋』のレヴュー(『CUT IN』vol.16)で「劇の内側と外側」と書いていた(のを今発見した)が、あるいは内野氏はこれを踏まえているのだろうか?しかしそもそも「内と外」だけでは、「主題」と呼ぶにはあまりに抽象的で漠然としすぎているから、『CUT IN』とBBSを関連づけてもあまり意味はない気がする。取り上げてもらうのは嬉しいが、中身がよくわからない。