『ぴあ』を立ち読みしていたら篠崎誠の新作がもうすぐ封切られることを知った。『犬と歩けば〜チロリとタムラ〜』、アニマル・セラピーとかいって「動物もの」であるとか、ココリコの田中直樹が主演で以下テレビの人がいっぱい出てる「メジャー系」であるとか、こういうネガティヴ要素にも関わらずよく見逃さずにすんだと思う。運が良かったとしかいいようがない。もちろんこれが塩田明彦の『黄泉がえり』みたいなことにならないという保証はないが(いや見てないけど)、『おかえり』の篠崎誠の、しかも『忘れられぬ人々』の篠崎誠の新作とあらば何としても見たい。
しかしそれにしても、ここ数年というもの映画館で見たいと思うと十中八九、日本の映画だ。日本の映画が見たいと思って探しているつもりはなくても、見たい映画が見つかるとそれはいつも日本の映画なのだ。今の日本映画が他地域の映画より抜群に面白いとは別に思わないが、「見たい」と思う時のその欲求の度合たるや格段の差があり、その原因は(例によって)はっきりしている。セリフが耳から直に入ってくるからだ。つまりもし英語や中国語が完璧にわかれば英語の映画だろうが中国語の映画だろうがそう変わらないと思う。しかしぼくには日本語と同等に使いこなせる言語は一つもないので、結果的に日本の映画を求めることになる。耳で聞くか字幕を追うかでは、情報量に圧倒的な差がある。少なくとも字幕を一瞬だけ見て、あとはなるべくメインの画面に目を固定しておくということを意識的に行わなければ、たいてい知らぬ間に字幕ばかり追って映像は大して見ていない状態になってしまう。
今やテレビのお笑い番組や漫才にすら字幕が使われているが、これはどういうことなのか。もちろん他方では意味内容の希薄な、感覚的な映画ばかりになっているのだから、一般的に映像よりも文字が優勢になっているということでは全然ない。おそらく字幕も、理解するのに時間がかからないよう直感的な表現で圧縮してあるから、文字より映像(イメージ)に近いのだろう。つまり映像/文字という風に表現媒体で区別するのではなく、感性的体験の濃度というか密度のようなもので線引きをするしかないのだろう。
しかしそういうマスカルチャーがどうなっているかは割とどうでもいい。気になるのはむしろ自分が耳からも豊穣なインプットが得られる日本映画にばかり惹かれてしまっているということの方だ。まるで「ぷちナショナリズム」ではないかと思うことがしばしばある。しかもそれは別にネイションを意識したり尊んだりしているわけではなくて、単に自分の言語環境が政治的・社会的・歴史的に規定されているだけ(?)で、その上それなりの速度で脱領土化したり異種混交したりもしているのだろうに、それでも結局は日本語の映画に固執して、他国語の映画よりもそれを優先していることに変わりはないという、その自分の意図せざる「保守主義」に歯痒さを感じる。
完全にわからない言語の映画を日本語の映画のように楽しむことはできるだろうか?それともむしろ、日本語の映画を、未知の言語の映画のように楽しむべきなのだろうか?外国語の映画を字幕で見る習慣をやめて、全部吹き替えにしてしまうという手もある。とすれば逆に、日本語の映画にも全部字幕をつけてしまうという手も考えられる。