舞踏カンパニーS塾のTさん(高校の二個先輩)の日記が久しぶりに再開されていたので読んでいたら、唐突に「よーしここはひとつクレイジーケンバンドを聴こう」と書かれてあって、TさんもCKBを聴いていることを知って嬉しく思いながら、またCKBスイッチが入ってしまった。どうしてくれるのか。ここんとこしばらく離れていたのに(音楽を聴いてなかった)、今度は『7時77分』だ。
この曲は最後の「もう大丈夫だ/俺たち 助かったんだよ/さあ 気分を変えてお聴き下さい/クレイジーケンバンドのニュー・アルバム/777」というところで、歌と語りがシームレスにつながっている。横山剣の「なな、なな、、なな。」という、タメつつ囁き声になっていく言い切りはたぶん『円楽のプレイボーイ講座12章』をほのめかしているのだろうけど、ぼくはこのコーダを聞くたびにイタリア語を連想してしまう。昔ルソーがいった通り、イタリア語はまったく歌のような言語で、発音するだけで楽しい。何しろ歌が苦手でもイタリア語を話せばただそれだけで歌が歌えてしまえてる感じなのだ。前にローマへ遊びに行ったときもレストランなどでウェイターがよく鼻歌を歌っているのに驚いたが、どこかの美術館の地下のピザ屋のカウンターで、お店のおっさんが少し離れたところから鼻歌を歌いながら近づいてきて、そのまま途切れずにぼくに話しかけてきたのは衝撃的というか、感動的だった。
しかし冷静に考えてみればどんな言語もそれなりに抑揚とかリズムがあるので、ある言語を話すということはある種の歌を歌うということに限りなく近い気もする。外国語を習得しようとするとき、語彙とか表現をマスターするだけじゃなく、あるいはそれより先に、ネイティヴ・スピーカーになり切ってしまうというか、キャラクターを演じるような意識をうまくつかむと頭を使わなくてもある程度話せるようになる。部分の積み重ねより全体(メロディーのパターン)を大づかみにする感じ。

とりとめがない。
今年のトヨタアワードのラインナップが出た。まったく見たことがないのはベルリン在住の可世木祐子だけで、あとはライヴで見たことがある。個人的には現時点で今年のベストに入っているほうほう堂と大橋可也を応援したいが、ちょっと最近気になっていることがある。ダンス業界がスター主義に走っていて、それが現実と齟齬を来たしているのではないかということだ。
ぼくはほうほう堂と大橋可也、それに身体表現サークルは現時点で非常にクリティカルな存在だと思っているが、例えばここで、ほうほう堂や大橋可也がグランプリを獲ったとする。あるいは康本雅子でもいいのだが。すると次の年はもう受賞者公演がブッキングされるのだろうか。あるいは仮にそうでなくても、少なくともアワード受賞者としての期待は大いにかかることになるだろう。彼ら彼女らは、そういう存在なのだろうか。あるいはそういう存在になることが、現時点での彼ら彼女らの表現がもっている批評性と、本当に噛み合っているのだろうか。
具体的にいえば、ほうほう堂は『北北東に進む方法』を2003年に作って<ソロ×デュオ>コンペで上演した。ぼくはこの初演を見逃しているのだが、2004年に同じ<ソロ×デュオ>で、ほうほう堂の方向性がググッとクリアになった素晴らしいパフォーマンスが見られたのは、おそらく『踊りに行くぜ!!』で公演を重ねたことが影響しているのだと思う。それ以前の彼女らと比べると、見違えるようになっていたからだ。大橋可也&ダンサーズの『あなたがここにいてほしい』も、自主公演の時のヴァージョンより『ラボ20』でやった縮小ヴァージョンの方が圧倒的に引き締まってよくなった。キュレーターのディーン・モスはあまり口を出さなかったらしいが、それでも自主公演とは環境がまったく違うだろう。しかしいずれにしても、率直にいうと、ぼくの目には彼ら彼女らはまだ一発しか当てていない存在なのだ。康本雅子も、ぼくにとってはまだ一発屋だ。しかしその一発が、とてつもなく素晴らしい。そしてその一発が出るまでには、おそらく多かれ少なかれ『踊りに行くぜ!!』とか『ラボ20』とか『ラッキー・ビンゴ・プロジェクト』が何らかの役割を果たしているのだ。
こういうことを今、誰も真剣に(危機感をもって)考えていないような気がする。新しいアーティストが次から次に出てくるからだろう。次から次へ。ネクスネクスネクスト。ネクストばっかりだから、心配するヒマもないのだろう。自分で思い当たる節も大いにある。自戒。