稲荷神社というのは独特なヴィジュアルをもっている。幾重にも立てられた鳥居、そして乱立する赤い幟旗。これらは奉納によって増殖するものであるために、整然と並ぶのではなく、まちまちの角度で「乱立」するのだろうと思われる。鳥居と幟旗の恐ろしい密度と、位置や高さや角度の不揃い加減がエキセントリックな印象を与え、しかも奥に鎮座しているのが狐であるわけだが、それが石でできているというところが何ともいえずクールだ。
ちょっとうたた寝していたら、素晴らしいダンスの夢を見た。音楽、照明、振付、およびネタまで揃っている。これは誰か、イメージにぴったり合うダンサーに教えなくては。
ポット出版のウェブサイトでやる往復書簡は、砂連尾理さんに快諾して頂き、もうすぐ始まることになった。
今日は特養にいる祖母に会いに行った。足腰が悪いだけで頭脳はまったく正常なのだが、近頃は整体のおかげで上半身の姿勢がやたら良くなった。背筋が真っ直ぐ、頭が肩の上に実にきれいに乗っている。
それにしても特養というのは実にギリギリな生が営まれる場所である。介護される側はもちろんだが、介護する側も(これは何も特養に限った話ではないが)、自分の一挙手一投足が「価値」を帯びてしまう。つまり良いとか悪いとか(自己)判断の対象になってしまうということだ。そしてもちろん、老人に対して常に「人間的」に接し続けることがいかに難しいかは、経験してみればすぐにわかる。自己嫌悪がそのままトラウマになったりする。
色んな老人が集まっているが、彼ら彼女らは事実上社会の中である一定のカテゴリーを形成しているわけで、どんな人もここで暮らせば、ここに集まっているあの人やこの人と自分は同じなのだなと認識せざるを得ないはずだ。どんなに違って見えても、「社会的には」自分とその人は同じだと思われていることを受け入れざるを得ない。例えば「日本人」が「日本人」としてのアイデンティティを背負うはめになるのとは違い、特養の老人たちには、自力でこの施設(カテゴリー)から出る可能性が与えられていない。「自分は自分だ」という内面が、「自分はこの集団の一部だ」という客観的な認識から乖離していても、せいぜいのところその乖離の意識に耐え続ける以上のことはできないだろう。気力さえ失ってしまえば、乖離の意識を放棄して内面を押しつぶす方が楽かもしれない。
高齢者介護という労働を家族(=たいていは「主婦」)から社会の負担へとシフトさせるべき、という考え方があるが、オルタナティヴな親密圏というのは、単に家族(=「主婦」)という受け皿とは別個の、公的に保障された「もう一つの」機構であるというだけでなく、親密圏の概念の内容において「新しい」ものを含んでいるのでなければ、ほとんど同じことの繰り返しだと思う。プロの介護士だって、親密になれば同時に感情的になってしまったりもするわけだから。