昨日のインタヴューでたまたま海に潜る話が出て、それを聞きながら三木成夫の本のことを思い出していた。胎児は、海に潜るどころか、鼻の中まで羊水、いや肺の中まで羊水に満たされているそうだ。ということは、胎児において自分の体の外と内の区別というのは限りなく稀薄なわけで、仮に胎児が自分というものを意識するとしたら「皮膚だけ」というか、ほとんど厚みのない、袋のような、面のような身体イメージなのではないか、などと妄想を膨らませた*1。それでさらに、水の中にいない自分の状態を、水中とは何が感覚的に異なっているかということを考えてみた。体の内側と外側の区別の感覚が、水中より陸上の方がハッキリしているのだろうか、と思ったがそれはあまり正確ではない。水の中でも、それほど体の外と内の区別が薄れるわけではない。水が、体にどこまでも密着する形で包み込んできて、水圧のおかげで方向感覚がなくなる。他方、空気には水のような抵抗がないから、体を全方位的に支えてはくれず、したがって重力というものが意識されてくる。体は、ドサッ、と床の上に落ちていて、あちこちの部位が体の各部分を宙に持ち上げている。重力のおかげでこうしていられるのだということが不思議に思えてくる。惑星のことを、太陽系のことを、今までになく生々しく考えた。
夜、なぜか見てしまった福原愛。ストレート勝ちだったのだけど、三セット目の後、相手の選手がコーチの所で笑っているのが印象に残った。何かもう、「いやちょっともう、あそこまで本気にはなれないな(苦笑)」という感じだった。福原愛の俊敏きわまりない動きはまさに「小鹿のような」というか、もちろん『ラジパケ』の仔山羊を思い出しつつ、同時に天才ヴァイオリン少女とか、JRの駅が全部言える少年とかも思い出していた。こういう子供独特の集中力というのはきっと誰しも思い当たる節が何かあるものと予想する。ちなみにぼくの場合は、ごく幼い頃は「恐竜の名前を覚えること」で、物心ついてからはファミコンだった。そんなものと一緒にしたら怒られる上に笑われそうだが本質的にはそう遠くないのでは、と思う。「そんなものに何の意味があるのか」とかグダグダ考えない視野の狭さ(それがどうやって保たれるかには色々ある)が、一点に集まる集中力の高さを支えてくれる。受験勉強とかも同じ。それに比べると相手の、35歳の選手は何かもう人生の業を背負いすぎてしまってて、一球一球に対して福原愛みたいに必死に喰らいついていかない。当たり前に取れるはずのものを、ただ何となく取ったり、何となく落としたりしているだけに見えた。「卓球選手って何なんだ。スポーツなんて別に社会の役に立たないし、しかも異様にみみっちくて意味不明」とか考えてしまっているのに違いない。それでも続けていくというのは、おそらく、「卓球」という意味不明な行為に、もっと幅広い視野の中で相対的な位置を与えて、そこそこ意味付けをして、その意味不明な「卓球」と自分の意味不明なリビドーとの関係を何とかうまいこと育てていくことに成功する、ということなのではないか。だからその点、子供は明らかに有利だ。福原愛のコーチは「言葉は悪いがエイリアンみたい」と言っているそうだが、本当に、35歳と福原愛じゃ別の生き物みたいに思えた。

*1:接触面そのもの、メディアそのもの、というか。