文字

いつも舞台を見ながらノートをとるということはしないのだが*1、先日たまたまどうでもいいようなダンスだったのでちょっと思いついたことを忘れないようにメモした。漢字二文字とはいえ、暗闇の中で手探りのようにして書いたのに、あとで見たらごく普通のきちんとした文字になっていて、それがすごく不思議な感覚だった。文字が、手の動きの軌跡、痕跡としてそこにある。自分の眼が見ていないところで、自分の手はそのような軌跡を描いて動いたということだ。ならば逆に、これを敷衍すれば、体のあらゆる動きは空間の中に軌跡を描いているともいえるだろう。文字以前の、何か記号のようなものを延々と描き続けているとも考えることができる。と、ここまで来て、そんなようなこと(ヒエログリフとか)をダンス論の文脈で語っている人は結構いるよな、と思い返した。今まではそういう論を見ても、なんでそんなことを思いつくのかよくわからなかった。……いやでも、しかし、文字はペン先の一点がたどる軌跡に過ぎないが、体はいうまでもなく立体で、その全体が一気に、しかも伸縮しながら動く。それを文字の比喩だとか、あるいは線(軌跡)としてとらえてしまうのってやはり無理とはいわないにしても、相当な詩的飛躍を含んでいると思う。

*1:これについてはダブリンに行った時にも批評家同士で話題になったが、メモなんか取ってたらダンスを「見る」ことはできないというところで概ね見解が一致した。大事な瞬間を見逃してしまうかも、とかそういうレヴェルの話ではなくて、手にダンス(=ダンサーの身体とその動き)とは直接関係ない意識や力が入っていたりしたら、ダンスを体感することはできなくなり、したがってダンスをダンス的な意味において「見る」ことはほとんど不可能になる、という特殊ダンス的な事情がある。