年末

年末の雰囲気は好きだ。わけもなく浮き足立つ感じが。しかし浮き足立ってみたところで何かするわけではない。人に会って酒を飲んでも、それは「人に会って酒を飲んだ(楽しかった)」ということでしかなく、「年末」の「感じ」が何か成就されたわけではない。どうすれば「年末」の感じを味わいつくせるのか、見当もつかない。「年末」はとらえどころがない。
類似したパターンとして「温泉」がある。「温泉に行きたい」とはしばしば思うのだが、お湯にはあまり長い間浸かっていられない。熱いからとかそんなことではなく、なぜなのかと考えてみたら、「飽きるから」なのだった。することがなくて手持ち無沙汰で飽きる。これは衝撃的な事実だ。「温泉に行きたい」と思って行って浸かるとたちどころに「飽きる」。温泉場の雰囲気が、ということではないかと思うとこれまた同じ事情で、行くとやはりそこでは手持ち無沙汰になる。というか温泉場における小さい目的があれやこれやと新しく生まれて、そっちに気を取られてしまい、「場」そのものは消える。ここでも「温泉」は手に入れたと同時にどこかへすり抜けていってしまう。
そう思ってみると「夏」とか「雪」とかもそうで、夏じゃない時に「夏が一番好きだなあ」とか思うが、夏が来るとひたすら暑く、暑いとエアコンとか入れてあちこち痛くなる。汗をかいてすぐにシャワーを浴びたくなるから徹夜で飲んだりできず、イヤだ。ろくなことがない。雪も降れば寒い。要するに好きなのは「夏」や「雪」のイデアなのだ。「年末」も「温泉」もイデアであって経験ではない。そして他方に、イデアなんか思い描けず、経験しかできないものがある。経験の中でしかそれと認識できないもの。経験されるたびに「ああこれだ」とわかるもの。