仕事する

明け方まで今日のPASの原稿を書いて、銀座のペッパーズギャラリーへ。ひろいようこの初自主ソロ。面白いところはいっぱいあったけど、全体にはちょっと段取り焦り気味。この踊りならもっと傲慢にのんびりやっても、というか、やった方が、お客を引っ張っていけると思った。夜の回はどうだったんだろう。Kさん、Yさん、Wさん、Kさん、Oさん、Oさん、に会う。
四谷へ移動して原稿に手を入れてPASダンスの学校へ行く。初めてだったが道に迷わなかった。早めに行ったらバレエのレッスンをやってて、終わると女の子たちがサーッと帰って、入れ代わりに男の人たちがどんどん入ってきた。凄い。10時まで女性用で12時まで男性用の露天風呂は、きっとこんな具合だろう。盛況。SさんやOくんやTさんが来てくれたが、基本的にはいつもと違う人々の中で、しかもとりわけダンスに愛をもっている人々の中で30分も話をさせてもらって、しかも何時間もディスカッションができたことはそれ自体として有益だった。今年はダブリン、京都と続いて「ダンス批評」をテーマにした集まりはこれで三度目だったのだが、個人的には今回が一番充実していた。とはいえ、延べ4時間近いミーティングから自分が得た検討課題は一つで、それは「コンテンポラリーダンス」はいわゆる「身体の復権」なのか、という問題だ。お名前を失念したX氏によって示唆された。ぼくが根っこの部分で圧倒的に影響を受けているのは桜井圭介『西麻布ダンス教室』なわけで、反対にもっともつまらないと思っているのが市川雅なわけだが、『西麻布ダンス教室』における「快楽主義」は(市川雅をまたいで)蘆原英了へと遡ることができる。両者をつないでいる象徴的な存在がローラン・プティだ。しかしとりわけ舞踏が肉体に否を突きつけるという作業をした後、再びそれ以前に戻ってしまっているのだろうか、ということを考えなければならない。単なる反動・回帰でないとしたら、何が違うのかを明らかにしなければならない。
それはそれとして、もはや「戦略的」という限定修飾すら恥ずかしくてできないぼくの本質主義が、リアル本質主義者からは単に同類と見なされ、アンチ本質主義者からもただのリアル本質主義としか受け取ってもらえないというこのジレンマをどうしたらいいのか。明らかにメチャメチャ細い綱渡りをしていて、しかも気づいたら綱の上には自分以外誰も乗っていないような気がしてきた。そして誰かが乗ってきたら一緒に落っこちてしまいそうだ。とりあえず、他の人も乗れるように綱を太くするしかないだろう。
銀座のひろいようこ組の打ち上げに混ざろうかと思ったが時間が遅いのでSさんと軽く飲んで帰る。話が盛り上がってしまったが適当なところでストップをかけ地下鉄に乗るといつも必ず終電をキャッチできる。
今年も残すところわずかだが、少なくともあと2本はダンスを見る。火曜はテルプシコールで天狼星堂。大倉摩矢子の踊りは絶対に見たい。もう一ヶ月くらいずっと頭の隅っこで楽しみにしていた。水曜はセッションハウスで近藤良平+3。これも見逃すことはできない。