凄すぎ

どうもニュースを見てるとみんな「ツナミ」って言ってない?と思ったら英語とかでも津波tsunami なのだった。しかし死者2万2000人超、時速700キロ、とか、シャレにならない。想像力の限界を超えている。実際絵が頭に思い描けない。死んだり怪我した人よりも、生きてる人たちの表情が異様だ。ショックだったのだろう。心配なのでジャカルタのRにメールした。
昨日の続き。「快楽主義」という言葉がやや平板だ。これは「見ることがともに踊ることでありうる」(『西麻布ダンス教室』p.243)というスタンスと関係していて、自分の体の外にある対象を距離を隔てて眺めるというのではなしに、自分の体に入ってくるものとしてダンスを、というか、ダンスの「経験」を扱おうという意味にすぎない。それは確かに「快楽主義」なのだが、快楽の内実をもっと詳しく調べないと、単なる享楽主義(ヘドニズム)と思われてしまいかねない。だいたいダンスというのはルールとか振付とか、あと体とか、自由にならないものと戯れることの中に喜びを味わおうとする行為なのであって、その総体をもし「快楽」と呼ぶなら、快楽は純粋な快楽ではないといわなければならない。
ダンスの代わりに、最も非芸術的と考えられているところの「食」について考えてみると(これは子供の頃から考えていたことではあるのだが)、空腹と満腹はどちらが幸せなのかという一見実にくだらない難問がある。満腹になった時、その状態を幸せとはあまり感じない。特にその食物が美味しく、さらに隣の人がこれからそれを食べるという時、自分はもう食べちゃったという事実は優越感などもたらさず、むしろ空腹な人を羨ましく思う。ところが空腹な人はそれを食べたいと思っているのだ。それどころか「空腹を満たしたい」とさえ思っている。満腹がこんなにも不幸であることを知らないわけでもなかろうに。つまり幸福は、空腹と満腹の間にある。空腹→幸福→満腹である。「食」の行為の只中にこそ幸福はある。だから食を考えなければならない。まず見た目がある。匂いがある。次に唇、歯、舌、粘膜、顎が活動する。そしてそれを喉が欲しがり、あれよという間に嚥下する。嚥下というクライマックスは、抑え難い欲望でありながら、同時に、ほとんど事故である。「飲み下したい」という欲望が、それは恣意であったはずなのに、「落ちてしまう」という単なる冷たい物理法則に取って代わられる。その瞬間が悲劇だ。いくら食べても飲み込まなければ太らないのになあとか思うことがあるが、飲み下さなければ幸福ではないのだ。ともかくこのように食の只中には激しいドラマがある。このドラマに参入することなくして、外側から何か言っても無意味である。食べなければならない。
中井正一がスポーツについて語った如く、快楽の中身を分析する必要がある。本能だとか、身体だとか、無意識だとか、快楽だとかいって、片付けて安心していては、ダンスを批評することはできない。「リップスが自らそれ〔「遊戯並びにその快感をもって一つの本能として記述」するような思考パターン〕を学問の屑籠と言った如く、それに投ずることで、言わば命名の魔術の中に、凡ての解釈はあたかもゴールラインに飛込んだランナーの様に、その進行を停止している。私達の解釈はそこからむしろバトンを受取らなければならない。そのゴールラインをスタートラインとしなければならない」(「スポーツ気分の構造」、『中井正一評論集』pp.77-8)。中井が唯一の例外としているのがシラーの遊戯論だ。
快楽の内部に立った上でそれを批評しているようなアーティストといったら誰かなあと考えると、思い当たるのはやっぱりフォーサイスと土方。共通点としてはどっちもショーダンスに縁があるという点で、これによってプティともつながり、プティを介して桜井と蘆原がつながる。特にフォーサイスに関して思うのは、快楽を追求しているというより、あるいはそれと同じくらい、いや、それと同時に、苦行を追求しているようにも見えるという点だ。どこまで体を追い込めるかというのも結構難しい問題で、何しろ死んでしまったらお終いなわけだから、死なないで、なおかつ苦しい目にあわなければならない。結局ダンスにおいて快楽を追求するということは苦痛を追求するということと表裏一体であるのかもしれない。その点ではまさにスポーツが記録をどんどん伸ばしていくのと似ている。どんどんしんどくなる。どんどん楽しくなる。ただスポーツがダメなのは尺度が予め設定されてしまっているところだ。快楽はもっと微細かつ多様に分節できるのであって、その仕方を新しく発見することは、快楽そのものと同じくらい楽しい。創る喜び。例えばリストカットとかそういうものの中にも本当はもっと色んなニュアンスがあるはずだ*1。いい切り方と悪い切り方があるばかりか、渋い切り方、「おつ」な切り方、ベタな切り方があるはずだ。ただし死んではならないという行き止まりがある(もう切れなくなるから)。以上から明らかなように、スポーツよりリストカットの方が偉いが、リストカットよりもダンスの方が偉いのは、そんな行き止まりすらないというところだ。食って生きていさえすれば(不可抗力で死ぬまでは)ずっとやっていられる。大野一雄がそれを証明している。

*1:まあぼくは全然わからないので以下は適当な放言。マゾヒズムとは全然違うのかもしれない。いずれにしてもマゾヒズムも全然共感できない。