踊る神

テルプシコールへ行ったら先日の車座討論に参加してくれていた方にバッタリお会いして、聞いたら普段いくつかの場所ですれ違ったりしているはずの方だった。Oさん。来年もわりとすぐにお会いするというか見るというか。行きは中央線が止まったりしてヒヤヒヤしたが普通に間に合って、客席も超満員だった。お客が途切れずに開演が押したのはたぶん電車のせいだろう。大倉摩矢子の出番は三ヶ所、最後のソロはこの前高円寺の無善寺でやったやつをそのままはめ込んで伸ばしてやっていたのだけど、ここより二人で出ているシーンの方が良かった。改めてこの人は特別な人だと思った。何せ要は「体」だから、「才能」というべきなのか「資質」というべきなのかよくわからないけれども、とにかく良い。
昨日のさらに続き。本質論を極めつつ、それと並行して同時に現在におけるイシューを立ち上げなければならない。これが難しい。そもそも、あるのかどうか。イシューとはすなわちダンスにおける問題であるとして、ダンスの危機とは、理念的には、差異の生成が抑圧され同一的なものや同質性に回収されてしまうような事態のことだと思われる。ところが同じことをいつまでも繰り返してもそれはそれで楽しかったりもしてしまうのであり、つまり差異の生成だと思っていたのがいつの間にかただの反復になっているということがままあるのだ。いや、逆に反復だと思っていたのが実はズレていってたということの方がむしろダンス的にリアルかもしれないが。ダンスにおける反復の快楽と差異生成の快楽はどうやって区別できるのか、そして現象としてはどうやって分離していくのか。反復と差異生成を、意識と無意識にそれぞれ振り分けることはできないと思う。意識的な反復には無意識的な差異生成がついて回り、意識的な差異生成には無意識的な反復がついて回る。
別の次元に属する、より深刻な問題として、こうやって理屈をこねまわすに値するというか、理論に耐えられるダンスが今どれほど存在しているのだろうかというのがある。言ってしまうと身も蓋もないが、あまり取るに足らないものに大袈裟な理論が乗っかっていくのも滑稽であるとは思う。