「恥知らず」について

本日、やや酔っ払った頭ではっきりと認識できたこと。ぼくは相撲に惹かれ始めている。というのも今、相撲には朝青龍ドルゴルスレン・ダグワドルジ)がいるからだ。子供の頃からあれだけ醜いと思っていたこの競技に、単なる精密なフォルムなどに還元されない運動*1の面白味が感じられるような気さえしてきた。朝青龍のあの屈折のない愚直さに、根性論から戦略論へと脱皮したい多くの日本人は反発すると同時に憧れてしまうと思う。愚直なものが強い、圧倒的に、ただひたすらに強いという事態。朝青龍は、相撲を否定したり、相撲以外の何かを否定してそこから力を得ようとしない。相撲に勝つという力を極める。相撲への内在を恥と思わない。しかし重要なのは朝青龍のこの「恥知らず」ぶりではなくて、それに憧れ、反発する人々の精神構造だろう。そして何が恥を忘れさせてくれるかと問うのではなく、そもそも「恥」とは何の謂いであったかを改めて問うべきであると思う。

*1:何しろ体重を互いに預け合ってしまう。正面衝突。限りなく純粋な二律背反、そこへ脂肪の弾力が加わる。動きの輪郭も曖昧になり、不可抗力や偶然性に大きく支配される。