濁流

昨日はアートノヴァ。三組とも変化球投げててなかなかカオティックで良かったと思う。山川冬樹さんはメチャ面白いパフォーマンスで、これは絶対もっと知られるべき。こういうジャンル的にカテゴライズ不能なものってホントに流通に乗れないよなあと改めて実感した。90年代前半くらいまでは、カテゴライズ不能なもの、ってことでダムタイプとか解体社とかパパタラとかロバート・ウィルソンとかカントールとか、っていう漠然とした塊がそれなりに流通していて、そこへバウシュとかフォーサイスとか勅使川原とかヤン・ファーブルとかもシームレスに合流し、その流れで何となく「ダンス」「舞踊」っていう名称がその「カテゴライズ不能なもの」「ジャンル横断的なもの」に対する便宜的な受け皿として機能していたような気がするのだけど、そこから「ダンス」っていう言葉が独り歩きし始め、さらに「コンテンポラリー」っていう限定修飾が付くと今度は「モダンダンス」や「現代舞踊」や「舞踏」と同一平面上で弁別されるべきカテゴリーとしてどんどん囲い込まれていった、という経緯があるとぼくは認識している。まあ「カテゴライズ不能なもの」っていうカオス状態をそれそのものとして受け取っていると価値基準があまりに曖昧で、そもそも人と話が通じないし、当時ぼくは何でこれがダンスなのか?とか全然わからなくて、それで「ダンス」っていうキーワードをかなり意識的に突っ込んで掘り下げていったということを自覚している。あえて保守的に、あえて原理主義的に、ということで、もちろん『西麻布ダンス教室』に強く導かれつつ、玉石混淆の「カテゴライズ不能なもの」祭りの中から明確な価値基準と探求の方向性みたいなものを抽出してそれにこだわらないとつまらないし不毛だと思ったのだ。でも今こうやってアーティストが自分で「コンテンポラリーダンスやってます」みたいなことを臆面もなく言える状況になってくると、もう「あえて原理主義」の「あえて」がきちんと作動しなくなってきて、素の「原理主義」というか素の右翼(?)みたいな人々との距離が維持できるのかどうか、自分でも怪しくなってくる。だいたい維持する必要があるのか?ないのか?いっそのこと「コンテンポラリーダンス」なんていう出自もいい加減なものをダンスの歴史にムリヤリ接合してしまうという選択肢はそれなりに魅力的なわけで、あまつさえダンス史における旧世代にとっての延命措置、福祉の観点からも有効なのだけれども、それって本当に極右というかネオナチ的なヤケクソっぽいメンタリティであるような気もしてしまう。いや、だから、そうやって硬直することで強度を得ようとするんじゃなくて、山川冬樹とかが平気でトヨタコレオグラフィーアワードに出てるとか、そしてそれをきちんとフォローできる理論が絶えず生成されていて、というような方向へ状況がねじ曲がっていけば、誰も死なずに、ますます悪ははびこっていくことができるのじゃないか。神村恵さんについては、正直リハの通しを見た段階では「うーん」という感じだったのだが、本番は良かった。特に、布をかぶり、脱ぐ場面は日々あちこち通い詰めていても滅多に出会えないほど見事なものだ。総じて、ブリックワンでぼくが見たものが結構うまく増幅されていたと思う。ブリックワンとかSTとかの小さいハコからいきなりトラムとかパークタワーとか、そういう強引な流れじゃなくて、やっぱりこのくらいのハコでやるという中間的な段階が今のダンスでは絶対に有効。自画自賛だけど。今回は神村さんとだいぶ話をして、刺激し合った感じなので、良いコラボレーションになったと思う。東谷隆司さんは前に芸術見本市でボクデスが出た時にトークをされていたのを聞いたことがある。パフォーマンスはもろに中央線カルチャーで、ディスクユニオンとか高円寺とかの記号を散りばめる手際の良さがいかにも美術畑の人らしい気質を表現していた。
打ち上げに行って、帰りの電車で神村さんとKさんと三人。なぜかお好み焼きの話になって、Kさんによると『ロスト・イン・トランスレーション』の中でビル・マーレーが「セルフ・クッキングはイヤだ」と言っているらしく、じゃあ焼肉とかしゃぶしゃぶもダメだし、ということはざる蕎麦をつゆにつけるのとか、刺身を醤油につけるのとかもアウトなのではないかと思った。
今日は祖母を見舞いに行って、夜は解体社を見に行く。昨日に続きTさんに会う。家に帰って「本のメルマガ」を見たら荒川修作+マドリン・ギンズのトイレットペーパーという意味不明な記事が出ていて、ウケたのだが、ポップに書いてある文章もまた面白い。「一体、何が起こりつつあるのか?どうしてトイレットペーパーなのか?何が目的なのか――?このスピードはどこからやってくるのか!!!」。特に惹かれるのがこの最後の「スピード」という語で、それこそどこからそんな言葉が出てきているのかわからないのだが、ある意味腑に落ちるのは、やっぱり荒川修作といえばあの唐突さ、根拠不明な胡散臭い自信に満ちた断言口調であって(養老天命反転地が出来るなどちょっとした荒川ブームだった頃ぼくは養老へも行ったし早稲田に講演に来た時も行った)、特に相手の発言に対する同意が「その通りだ。」という力強い言い切りであったりすることや、「私は死なない」というような深いんだか深くないんだかわからない言語パフォーマンスには、やはり「スピード」が感じられるのだ。スピードを、速度、つまり移動における空間と時間の比率として量的に表象してしまうのではなく、前後の脈絡なしにいきなり細い針で中心をプスッと刺し貫くような振る舞いとして表象する限りにおいて、予測不能なもの意味不明なものの経験はすべて「速い」のではないか、あるいは「速さ」として表象されざるをえないのではないか。終わり。