しんかいち

土曜。正午から泉北高速鉄道の車内で始まる北村成美のパフォーマンスを見るべく、早起きして新幹線に乗る。全然寝てないため、携帯のアラームを設定してそれを握りしめていた(万が一寝入ってしまってもヴァイブレーションで目が覚めるように)。駅に着いて何か食べようと思って外をウロウロしていたら、先日トヨタでご一緒したばかりのKさんと遭遇。だいたい「人」と「場所」はセットで記憶されているから、予期しないところでいきなり会うと一瞬わからなかったりする。切符を買おうとしていたら別のKさんにも声をかけられる。あと芸大取手のSちゃんも来てて驚いた。美術の参加作品に音楽を提供してるとのこと。まあこのイヴェントのことは長くなるからここでは省略。帰りはKさんと途中まで、ぼくは神戸アートビレッジセンターへ移動。新開地という場所にある。ぼくは神戸初めてで、神戸といえば何よりも『ポートピア連続殺人事件』なので、ここがあの「しんかいち」かと感慨に耽ってしまう。「すなっく ぱる」。『ポートピア』と、あと『オホーツクに消ゆ』とか、この辺りのチープ極まる画面と音、ひらがな表記は、しかしチープなだけに一層深い情緒を小学生の脳裡に焼き付けたのだった。特に『ポートピア』の画はほとんどデ・キリコのそれを思わせるような、閑散とした、どこか超越的な視点から眺めたような白昼夢じみた風景で、「しんかいち」という不思議な響きの地名も、あの白と黒とグレーでできたほとんど抽象的な3Dダンジョンや、細かい四角のドットで描かれた登場人物たちの、擬似的といえばあまりにも疑似的なリアリティを構成する一部分としてぼくの記憶の底に深くインストールされている。しかしいくら本物の新開地を見ても、それは「しんかいち」とは少しも重ならない。「しんかいち」はファミコンで、新開地はここなのだが、ここのことはまだよくわからない。j.a.m.の舞台は、今までの作品とはかなり違う、野心的なものであるように思えた。「ダンス」というフォーマット自体を含め、あらゆる紋切り型を捨てて潔く丸腰になろうとしている。器用な作物ではないかもしれないけれども、スタンスとして無条件に支持したいなと思った。センターのFさんと、振付の相原さんと、舞監のAさん、栗東のYさんと近くで飲み。Yさんに車で送って頂いて三宮の近くのホテルで寝る。
日曜。三宮の駅まで歩く。陽射しは温かく、風は冷たく、背後に山が迫り、震災の痕は見当たらず。昨日Yさんに言われるまでぼくの頭の中は神戸=『ポートピア』で、震災のことは少しも思い浮かばなかった。新開地の辺りをウロウロしてみた。駅からつながっている地下街。奥の方に古書店街がある。漫画と、あとはビニ本やヴィデオの類が前に並んでいるが、奥の棚にはかなりハイレヴェルな(本気で古い)古書が積まれていて、隅々まで見て回ったが結局何も欲しいものは見つからなかった。幅広いジャンルの本が新旧揃っているのに、何だか見たこともないものばかりで、自分とこの世界とが微妙にすれ違ってしまっているような、不思議な気がした。あとなぜかこの地下には卓球場があって、大人とか子供がカツンカツンやっていた。日曜の午前。ぼくはどこへ出かけても、大抵こういう、どこかうら寂しい、地元の人がひっそりと安らっているような場所へと本能的に向かって、人々の退屈に巻き込まれながら時間と空間を味わってしまう。消費のための記号体系とは違う平面上で、停滞して発酵している別の記号体系を自分なりにエンコードしながら歩いて見て回る。お昼を食べようと思って地上の商店街を見て回り、いかにもやる気なさそうな中華料理屋へ入ってみる。壁に貼ってある手書きメニューの紙が余裕で斜め25度ぐらいになっていたりする店内。全員中国人で、奥で店の子供がお昼にラーメンを食べている。美味いのか不味いのかよくわからないが、安い。もう一つ古本屋があったので入ってみる。「性生活」とかその辺のレアな感じの雑誌が大量にあり、同時にきわめてハードな、古い本が上の方まで積もっていてなかなか迫力がある。センターへ行ってj.a.m.二度目見て、ポストトーク。作品そのものが、見終わった人を饒舌にさせるというより、じっと省察を促すようなタイプのものということもあって、ちょっとディープでわかりにくい話をしてしまった。が、ダンサーと振付家が稽古場でどういうコミュニケーションをしているのかということについては興味深い話が聞けたと思う。ダンサーが自分の動き方について自分で考え、振付家がひたすらダメ出しをする。これがもっと方法論的に行われていたら独特のものになるのではないかと思った。相原さん、センターのFさん、Nさん、と事務所で話していたら青空に雪がチラチラと舞っていた。新神戸まで出て、新幹線に乗る。途中は結構雪景色だったりした。ふーん。