この前Tさんに教わった日野武道研究所の日記などにおけるフォーサイス関連の話を読んだ。日野晃がフォーサイス・カンパニーの稽古場へ行ってあれこれ教えたりしているのだが、やっぱりぼくはダンスの人より武術の人が言ってることの方が面白く感じてしまう。「〜しまう」っていう必要は別にないし、ダンス側から武術に興味をもつ人は決して少なくなく、むしろありがちなことなのだけれども、ダンスにおける言葉の貧困さへのコンプレックスが、つい「〜しまう」といいたくさせるのだろう。もっとも武術の領域で、動きが「踊り」になっちゃうというのはある種の逸脱と見なされ、おそらくは卑下されていて、しかもぼくとしてはそこでいわれている「踊り」なるものには全くといっていいほど心を動かされない。それほど演武みたいなものを見たことがあるわけじゃないけど。むしろ武術そのものの中に自分の関心を引くものがあり、ということはそれに対応するというか、質的にはそれと変わらない何かをダンスの中にも見ているわけで、おそらくそれは体を媒介にした世界認識の可能性とかそんなことじゃないのかなと思う。いやまあ無理に狭く規定することもない。
日野晃に戻ると、引っかかるのはやっぱり彼が権威というか「究極」みたいなものを求めちゃっているところで、そこが甲野善紀とは大きく違う(ちなみに新著『身体から革命を起こす』('05、新潮社)[amazon]には山田うんのコメントがある)。甲野は絶対に自分が究極の答えを見つけたと信じ込まないで、いくらでも別の可能性が想定しうると思ってずっと体をいじくっている。体というのは結局のところある種の「世界」の裏側で、体を精査することはその世界を裏面から精査すること以外の何ものでもないとすれば、その世界の広さと体の広さは実は等しいということになる。もちろん逆にいえばこの世界と体はベッタリと相即していて一つの閉鎖系をなしているともいえるわけだが。