無表情

mixiに入れてもらった。というかまだ何だかさっぱりわからないのであちこち動き回ったら「あしあと」とか付いちゃって、少々憂鬱な気分に。まあ大体「コミュニティ・エンターテイメント」とか「ソーシャル・ネットワーキング」とかいったワードが引っかかる。「コミュニティ」が「エンターテイメント」って…
ジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』('97、ちくま学芸文庫[amazon]を読んでいて、北田『嗤う日本の「ナショナリズム」』('05、NHKブックス)[amazon]の結論部で何かおかしいと思ってた疑問が少し形をなしてきた。北田の議論だとアイロニーが空虚な形式と化して内容は何でも代入可能、みたいなのが「ポスト八〇年代のゾンビたち」だったのだが、でもやっぱり「何でもあり」じゃなくて、代入される値として何かが選ばれてくる過程にはもっとねじくれたロジックが働いてると思う。「ナショナリズム」にしたって、どうしてナショナリズムが選ばれるのかといえば手近にナショナリズムという選択肢が転がっているからで、それがどんなに平板化した「マテリアル」に過ぎないとしても、その平板さに応じた素朴なモティヴェーションが仮託されていないわけがない。信じがたいほど陳腐な観念や図式や情念が、もっともらしい(誰かが正当性を担保してくれてるはず、と無責任に安心できそうな、要するに疑似超越的な)「ネタ」に乗っけられて転がされてるわけであって、何もアイロニーという形式だけを弄んでいるわけじゃない。どう考えても「ナショナリズム」は暗にナショナリズムを主張しちゃっていて、ところが大してそれに覚悟をもってない上に理解すらしてない。こんなのアイロニーとすらいえないんじゃないか。「思想なき思想」なんて大層なものじゃなく、ただの思考停止なんではないか。大体そんなものを真面目に相手にしてたらヒステリックに(ベタに)騒いでる韓国の人と一緒になってしまう。ここでぼくはいとも簡単に「普通選挙法を廃止して選挙権に制限を設けよう」と主張したい、のだがそんなこと言えない。