中心

昨日はTOZAWAとはむつんサーブとひとりでできるもんが出るSTANDというイヴェントに行くつもりだったのだが、14時オープンで22時クローズというユルユルの構成で、こちとら時間に余裕が全くないため断念。
今日はフォルクスビューネの『終着駅アメリカ』を見に行く。テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』は前にエリア・カザンの映画を見ていたが、何一つ覚えていないので駅前の本屋で文庫本を買って三軒茶屋へ向かいながら速読。三茶に着いてからも含め120分くらいで読めた。正確にはラスト15ページくらい残っちゃったのだが、まあ自分としてはかなり速い。人物の数が少なく、場が変化せず、小田島訳が読みやすかったから*1。それで実際の舞台はというと、2時間40分もあるのに全然飽きなかったというのが凄いことは凄いのだけど、全く想像の範囲内というか、自分が改めて演劇に興味ないのだということをまざまざと見せつけてくれるような良質さで、いつになったらこういう鳴り物入りイヴェントに対する「アリバイ作り」から足を洗えるのだろうと自己嫌悪。そもそも「ライヴ」であることと「意味性」とは一体いかにして両立し得るのか。意味はぜひとも反芻したり転がしたりしたいもので、小説とか戯曲を読んでいる時にはもちろんそれをやっているのだが、ライヴの演劇はそれを全然許してくれず、超時間的な観念、静止した記号の速やかな了解に次ぐ了解に追いまくられてしまう。ブルースじゃなくてルー・リードポーランド移民→連帯……で、何?と思うのだが、演劇の観客はこういうものを一々受け止めること自体が楽しいのだろうか?ヘンな声を出す、ヘンな動きをする、ことが楽しいのだろうか?どんな声か、どんな動きか、ということは別にいいのか?……昔からずっと同じ疑問だけど。
この前神戸に行った時に、自分史上「国内で最も西」へ来たと思ったら、何年か前に行った高松の方が全然西で愕然としたのだが、今度は6月に山口へ行けることになった。イメージ的に実に「端っこ」感がある。アイルランドへ行った時も相当に「端っこ」感があり、味わい深かったが、しかしダブリンはまだ東岸で、ロンプラでアイルランド西部の写真を見たりすると本当にもう崖っぷちな感じがしてたまらなくそそられた。「崖っぷち」は「エッジ」であり、失うものは何もなく、一寸先は「外(アウト)」なのである。それ自体を「端っこ」たらしめている当の尺度や体系そのものの「外」が、振り返れば広がっている。実際あのホウスの崖は今でも脳裡に思い浮かべるだけでゾッとする。どうしてゾッとするかというと、「落ちる→高い→危ない」という推論ゆえではなく、自分が最後の一歩を踏み出して転落するところを想像しては押し留めるこの理不尽な衝動と自制の往復運動を自分で止められないからだ。耐え難いエッジ感。身悶え。

*1:一箇所いたく感動したト書き。「男たちはさらに笑って、別れの挨拶をどなりあう。スタンリーは台所の網戸を乱暴に開けてなかに入る。彼は中背で、一七四、五センチ、頑丈で引きしまった体格をしている。その動作や態度のはしばしに、生きていることへの動物的な喜びがあらわれている。男としての物心がついたころから、彼の生活の中心は女相手の快楽であった、それも、快楽に身を任せて意気地なく溺れるのではなく、雌鶏の群れのなかの豪勢な羽をつけた一羽の雄鶏のように、力と誇りとをもって、快楽を与えつつかつ受けとるのである。この徹底的な満足感を生み出す中心から、彼の生活のあらゆる副次的活動が派生する。たとえば、男友だちと胸襟を開いてつきあうのも、野卑なユーモアを楽しむのも、いい酒や食べものや勝負事に夢中になるのも、車、ラジオ、その他自分が華やかな雄であることを誇示するいっさいの所有物に愛着するのも、そうである。彼は一目で女たちを性的な分類でもって評価する、そして卑猥な姿態を想像しながら、どのようにほほえみかけるのか決めるのである」(32頁)