こんな

やらなきゃいけないのにいつまでも手を付けないでグズグズ先延ばしにしてしまう。やり始めれば作業はそれなりに楽しく、悩んだりもがいたりするのもまた楽しさの一部であったりするのはわかっているのに、なかなか始めない。手を付けるとその瞬間に何かが決定されてしまう感じがして、その手前の段階、まだ何も決定付けられていない、あらゆる可能性がサスペンドされた状態で、色々とこねくり回している時の興奮の何たる不毛さよ。こんなような話を前にとあるダンサーにしたら、同感と言い、ものを作る時に、やっぱりどうしても自分に対する要求(ハードル)あるいは期待が高くなってしまって、だからそうそう迂闊には最初の一歩を踏み出せなくなるわけだよねと説明していた。確かに。誰がやっても同じような仕事だったら、かったるいと思いながらすぐ片付けられる。でも自分が何かそこに賭けている時はもっと全然別の構えになる。手を付けて、何か形が見えてきた時に、いやこんなんじゃない違うと思ってしまった時(必ず思う)、そこからの道のりが遠い。もうあの不毛な興奮も期待もとっくに消えている。創造と制作の差異。創造は無時間的だが、制作は時間の中にある、というか、時間そのものである*1。創造しようとしたら制作が始まってしまうところに人間の悲哀がある。
この前のマリー・シュイナールのレヴューを書いていて、ああ、と思い立ってバルトルシャイティス『幻想の中世I・II』('98、平凡社ライブラリー)[amazon]を読み始める。何となく見たことあるヘンな図像と図像が何ともクールな手付きで関連付けられていく*2。イメージの拡大解釈、混同、誤解のとめどもない連鎖の歴史。面白い。偉大な歴史家はハードディスクがデカい。

*1:だから造物主は無限定な全体を一瞬で作ったことになってるわけで、つまり逆に言えば「部分」をシコシコと拵えることはできなかった。

*2:ヴィーナスが貝から生まれてる絵と、占いとかで見る下半身が螺旋状になってる動物とかが実はつながってるとか。