分有

昨日の『少年チャンプル』はアニメーションのテクニックを色々解説していた*1。面白かったのはコマ送りやスネークなどといったテクニックの元ネタが『ターミネーター』や『シンドバッド黄金の航海』のストップモーションだという話。スタン・ウィンストンターミネーターは中学生の頃、体育のサッカーの試合中に、サッカーに興味ない友だちとかとグラウンドの真中でよく真似してた。ロボットは可動部位が限られているのでわりと簡単にそれっぽくできるが、ハリーハウゼンは全体が細かく割れているので遊びではなかなか真似できないと思う。
しかしこの番組は色々なことを考えさせる。今ダンスを見るなら劇場へ行くんじゃなくて木曜の深夜にテレビを見るべき。先週はブレイキングのバトルをやっていて、常々この「ダンスバトル」とは何なのかと思っていたのだが、要するにその「バトル」という言い方。一応、優劣・巧拙を競う形式をとっているのではあるが、バトルとはいっても相手の存在を消滅せしめるところに目的があるのではない。否定的な力は一切現われず、ひたすら相手のダンスを自らが上回ること、これを目指して互いが互いを乗り越え合っていく無限肯定プロセス。大抵勝負は決せられず、観客の拍手に委ねられたり、互いに讃え合ったりして何となく終わる。
昨日の井手茂太を見ていて、隣の人が体を動かし始める度に片目を閉じるということをしていた。悪いが非常に鬱陶しい。気が散る。去年6月に金森穣の時にも書いたが、他人のダンスを見ようとする以上、自分の体のノイズはなるべく低減した方がいいのだ。時には踊り出したくなる気持ちもわからないではないが、「見るダンス」というのは踊り出したいという衝動をどこまでもグッとこらえてこそ、のマゾヒズムではないのかと思う*2。「一緒に踊る」というコミュニケーションが踊りの全てではないし、むしろ「踊る人」「見る人」という分裂があってはじめて可能になる踊りというものがある。一方は「踊り」、他方は「視線」という武器を携えて極端な緊張と強度の中で対峙する関係は非対称でありながら対等という特殊なものなのだ。だから全身を耳に、筋肉に、目にして凝視している視界に隣から勝手に侵入して来ないで頂きたい。だいたいが劇場で自己主張しようとする観客というものが尊敬できない。近代的な劇場の観客などというものは偽の共同性の中で情けない匿名の存在としてじっと息を詰め大人しくしているべきなのであって、騒いでしまったらそれは祭りでしかなくなる。ぼくは少し前まで舞台がダメな時は拍手をしないという習慣をもっていたが、それすらも周囲の人の気分を害してはいけないと思って改めた。その代わり、舞台が良かった時は一際熱烈な拍手をするようにした。

*1:ポッピングとアニメーションの関係が今一つわからない。アニメーションは「自由」と言われていたが、要するにポッピングにおけるマイム的なアイソレーションや停止の技法の応用編ということなのだろうか。ということはポッピングはより語彙の限定された様式ということなのか。

*2:踊りながら見ることは可能なのだろうか。