怒号層圏

日本人はまだこんなに熱く議論できるのかと驚くほどの物議を醸しつつ四年目のトヨタアワード終了。土日とさらに月、と三日間に渡ってとにかく多くの人と喋った。色んな意見が飛び交って刺激は多かった。そのことだけでも凄いと思うが、審査員からの選評が一切なされなかった以上、全てはその空無の周囲でストレスに駆られながら渦巻くことになる。
ぼく自身は選考委員の一人として、ファイナリスト八組の選出結果にはおおむね満足しているし、残念ながら上演の質が必ずしも高くなかったこと、作品のアレンジがうまくいっていないものが非常に多かったことも認識しているが、トヨタアワードは、上演の出来不出来だの、作品の出来不出来だのではなくて、「次代を担う振付家」の、いまだ十分に開花していない創造力のポテンシャルを顕彰する場だという風に理解しているから、「つまらなかった」とか「寝た」とかいった水準のブーイングには全く付き合う必要を感じない。また既存の価値基準を疑ってみようともせずに評価を下す怠惰な批評にも辟易させられる。確かに、作家にとって最良の条件下で作品をプレゼンできなかった、そのために審査員や観客に表現が届かなかったという側面もあることは否定できない。しかしそうはいっても、何がダンスか、振付とは何か、という問題がこれだけ先鋭に突き付けられているのに、選評も出されず、とりわけ岡田利規について(別に岡田が受賞すべきだったと主張するわけではないが)審査委員長が「振付ではない」と言い放ったと聞いては、「じゃあ振付って何なのか教えてくれよ」と問いたいし、それ以上にもっと徹底して主張を行わずにはいられないので、いま書ける場所を探索している。
それにしても自分が「怒り顔」であることは知っていつつも、例えば同じく怒り顔のMさん(京都在住)とは「互いの怒り顔にいちいち反応して怒る」という、まるで「暗い廊下を歩いていたら思いがけないところに鏡があって自分の姿に驚く」みたいなひどく滑稽な事態に陥ってしまうほどに、顔というのは無意識の凝集する部位であって、審査結果発表後のレセプションでぼくの顔が「すげーこわかった」と言われてショックを受けた。