I WALKED WITH A ZOMBIE

14時30分、与野本町。駅から劇場までの道のりに日陰はほとんど存在しない。あまり知ってる人はいないかなと思ったらTさんと隣だった。17時30分、神谷町。貧しい食事(昼?)をしてからタリーズへ行ったらお店の人が感じ良くて涼しくて静かで最高。今日は朝7時30分頃まで原稿を書いててろくに眠ってなかったので、面倒くさい読み物をする気が起きず、劇場でゲットしてきたフリペの数々(『ぶらぁぼ』二ヵ月分、『プチクリ』、アートスフィアの月報、神奈川財団の月報、その他諸々。いつも置いてある『intoxicate』はなかった)を端から読み倒す。18時40分、外へ出るともう涼しい。die pratzeへ行ったらLさんやさっきも会ったTさん、あとHちゃんに一瞬会った。正直、ダンスから刺激を受けるということに希望を持ち続けるのは本当に疲れる。何でだろう。どうしてもっと普通に面白いものが普通に行われてないのか?映画を見ようと思えば常に色々やってるわけだし、音楽だって常に色々あるわけで、何もその一々がそんな革新的であったり唯一無二のものであったりする必要はなく、普通に楽しんで、しかもその上にその楽しみについてあれこれ批評したりできてるのに、ダンスは古典以外にそういうものがない。「アート」であって「ポピュラー文化」ではないから?この辺の境界線があまり意味をなさないというか、普通にポピュラーにアートできているのが映画とか音楽、あと文学とかマンガ(よく知らないけど)、と思うとどれも複製メディアに乗っかってるものばかりではないか。複製メディアに乗ってないもの、演劇とかダンスとか美術はみんな「ポピュラーなもの」に対してコンプレックスを感じて「高級文化」の「高級」性の桎梏を打破しようとしたり、しかもその身振りがかえって「高級」性の再生産につながってしまうという身も蓋もない悪循環に陥ったりしている。メディアで流通可能なもの、いいかえれば資本主義に親和的なものは、そういう面倒くさい自己批判みたいなことをもっとポップに、楽しくやれる。なぜか?…などと思っていたらMから電話あり、新潟で見たNoismが最高の出来だったとの話。この人がこんな興奮してるのは珍しい。
全く関係ないが、電車の中で座席に座り、首を後ろに倒して寝入ってしまっている人がしばしばいる。顎が引っ張られているので口が思い切り開いていて、あれはちょっとあんまりな姿である。それで先日、地下鉄に乗ったら立っている自分の前でこういう状態になっている30代くらいの女の人がいて、その姿が完全に「死体」みたいで一瞬ビクッと後ずさりしかかってしまった。回遊魚みたいに口が最大限にオープンしているのだが、この人は瞼まで半開きになって、その開いた隙間からジャストミートな角度で黒目がこっちを見ている。目をそらしてもつい見てしまい、見ると鳥肌が立つ。怖すぎ。そして突然、ハッと目が覚めて起きるとそれもまた不気味で、起きてもまたすぐ寝て、口が開き、半開きの隙間からこっちを見ている。それとなく見回すと周りの人もかなり気になっている様子。興味なさそうな目つきながら明らかに釘付けになってる人もいる。ストーリー抜きに怖いものがあるのだということをまざまざと教えてくれるような卓抜なフォルムではあったが、しかし怖がりつつ見ている内になぜか突然笑いがこみ上げてきた。おマヌケに見えてきた。それでも怖い。怖いのにおマヌケだった。