青くすらなく

夕方からずっとBankART NYKにいた。トヨタの時に知り合いになったDさんと話してたら、彼女は中三の時に澁澤龍彦とかを読んで「そういうの」に憧れて上京して、今はもう別に「そういうの」への拘りからはずっと遠くなっているのだが、やはり阿佐ヶ谷などに住んでいるため唐十郎とかがツーッと自転車で走っていたりするとついビビッと反応してしまうのだという。およそ「定番」的なものを意味なく(単なる「ひねくれ」だけで)素通りし、その結果やっぱり何も知らないまま、みたいなのがぼくの貧しい生き方であり、その点ですでにDさんには取り返しのつかないほどの遅れをとっているわけだが、あろうことか偶然にも今日ぼくは生まれて初めて澁澤龍彦の本を読み始めたところだった(『エロスの解剖』(河出文庫)[amazon])。ぼくが中三の時なんて、棚に並んでるホラー映画はあらかた見てしまったのでもうこの店に用はないなと思っていて、あとは受験とゲームばっかりで、何読んだらいいのかわからないので適当にチープな角川文庫のSFみたいなのばかり買って次々に読み飛ばしていた。ただ活字が好きなだけだったのだろうが、その中にたまたま笠井潔の『ヴァンパイヤー戦争』[amazon]なんかが混じっていて、中学生の時に漫然と消費したこの笠井潔が『テロルの現象学』[amazon]の笠井潔と同一人物だと今さら知っても、何せ『ヴァンパイヤー戦争』の読書体験が本気でただの毎日ゲームとドリルばかりやってる中三のそれだったため、およそ無意味なまでに意表を突く事実にただ「へぇ」と無内容に驚くだけだったりして、あるいはむしろ「あんなしょうもない小説の作者が…」ぐらいに傲慢不遜に驚きさえしてしまったりして、全く本当にしょうもない思春期を過ごしてしまった、と今日改めて思った。ひどすぎるこのひどさを、何の因果か今さら自覚するに至ってしまっているところがますますもって悲惨である。「ひどい」と思わずにアン・ジッヒに「ひどい」まま安らかに生きて死んでいくこともできたのに。ちなみにこれは負け惜しみでも何でもないが、50頁ぐらい読んだ澁澤龍彦の文章は何とも衒学的でテキトーで胡散臭く、まずもって読者は内容の把握よりも先にこの胡散臭さの形式を共有することが求められているという印象をもった。「気分」的なものがいつも歴史を作っていくのだろうか?