何か
韓国からやって来た舞踊団*1による1時間ものフロントアクトの後、神村恵を見る。4月に早稲田でやった『脱出&カムバック』がベースのマイナーチェンジ(25分くらい)。荒削りな部分もあるがやはり圧倒的に面白い。いや「やはり」というのはまるで予め了解ないし期待された何かがあってそこにピッタリはまってきたので満足、みたいな誤解を招きかねない。むしろ理解不能な何かをまたしても見てしまったということで、今回新しく追加された場面では Quantic Soul Orchestra のファンキーなインストに全身でノる、ただしタテにもヨコにも揺れないどころか、むしろ真っ直ぐ止まったまま、関節とか部位ではなくその間の全部が一斉にざわざわと揺れる。いくら見てもどうやって動いてるのかわからないというか、名指しようのない無数の部分が一辺に(それこそオーケストラみたいに)ファンキーに動いているので、どこがどう動いているという風にいえない。よくある痙攣とかとも違う。要するに何だかわからない、見たことのない踊りとしかいいようがない。
批評家のH氏が前に「土方巽が出てきた時しばらくは誰も何も言えなかった」と話してくれたのがずっと印象に残っている。つまり本当に新しいものは、人々がそれについて語れるようになるまでに時間がかかる。人々は何だかわからないまま衝撃を受ける。もちろん時間が経つとそれが何であったかがわかるわけではなくて、それを語るのに必要な新しい言葉が少しずつ開発されることによって、とりあえずそれの周りをグルグル回れる程度にはなる、というようなことだと思う。最近の例でいえば、今チェルフィッチュを語るのに実に多くの言葉が費やされていて、人々は動揺して、言葉も動揺しているから、レヴューなど書こうと思ったらとりあえず説明から入らねばならないし、なかなか語りたいことの核心にまで辿り付けず、辿り付いたと思ったらろくにうまく語れなかったりする。ぼくが黒沢美香を初めて見たのは99年だが、最初は全く意味がわからなかった。何回か見ているうちに徐々に何か見えてきた気がして、そこを気にしながらさらに見続けていたらどんどん果てしなく視界が開けていき、少しは黒沢美香の周りを遠くからグルグル回る程度にはなれたと思う。いやむしろ「黒沢美香」についてはその周りをグルグル回り続けることしかできないが、回り続けることによって「ダンス」のことが語れるようになる。今はとにかく神村恵が何だかわからないまま衝撃を受ける。神村恵を通して自分にとっての「ダンス」が深まっていく予感がある。
*1:それにしても韓国のダンスは、いったい誰が、何のために呼び、そして誰が喜んで見ているのか?せめて現代舞踊の方面で踊ればそれなりに反応が返ってくるのかも知れないが、もしこれが「国際交流」とかなのだとしたら本末転倒としか言いようがない。