捕獲

ちょっとした自慢だが先日ついにブレッソン『シネマトグラフ覚書 ――映画監督のノート』('87、筑摩書房)[amazon]をゲットした。書き込みもなくきれいな初版本、帯付き*1。何年か前に一度ネットの古書店で出た時はタッチの差で逃した。今回は速攻でメール入れて電話までして気づいたら結構夜遅くて、いかにも「取り乱している人」を演じてしまった。ただこの本は丸ごとタバコのヤニ臭い。こんな臭い本は初めてだがこういうのってどうにか取れないんだろうか。とかいっているとちくま学芸文庫に入ったりするかも知れないが、装丁がリュミエール叢書っぽく、そういえばリュミエール叢書からちくま文庫へという流れはあまりないような気がする。訳者の松浦寿輝は「訳者後記」の末尾に「どうか読者諸兄もまた、ちょうどブレッソン映画の登場人物のような手つきで本書のページを繰ってくださらんことを」と何ともミーハーっぽいことを書いている。
浅沼圭司『ロベール・ブレッソン研究―シネマの否定』('99、水声社)[amazon]をパラパラめくってみた。

この映画のなかで、もっともおどろくべき、むしろ異様ともいうべき場面は、サーカスの動物小屋のなかで、動物の檻のまえを、餌をつんだ車をひいたバルタザール*2がとおる場面だろう。虎、白熊、チンパンジー、そして象の、バルタザールをながめるまなざし、鳴き声、そしてそれらの動物をみるバルタザールのまなざし。〔…〕この交換されるまなざしと観客(人間)のあいだには、超えがたい障壁があるようだ。とくにその直後にクロース・アップでしめされるバルタザールのまなざしは、観客(人間)による読みとり、あるいは意味づけをいっさい拒否しているように思われる。バルタザールはなにもみていないのではない、確実になにかをみている、しかしそのみたものを、ひとは憶測することさえできない。こどもらとの、とくにマリとのふれあいをとおして、バルタザールに人間的ななにかを感じ、感情移入さえおこなおうとしていた観客は、このまなざしに出会い、とまどいをおぼえ、あるいはバルタザールの遠のきを感じるのではないだろうか。しかしバルタザールが、みずからの意志で、人間のまなざしを拒否し、人間をその領域外へ追いやったのではない。すべてのものごとを、自分にたいするものとしてとらえ、自分との関係で判断しようとする人間のまなざしそのものが――それは、ブレッソン風にいえば、まさに「シネマ的」なまなざしなのだが*3――、バルタザールを遠ざけるのではないだろうか。(355-356頁)

今日はといえば、インドネシア語の入門書を二冊買った。ヨーロッパ以外の言葉に手を付けるのはほぼ初めてだがとりあえず文字がラテンなのでとっつきやすい。ヨーロッパ系の単語もずいぶん混じっているし。前にロシア語にトライしようとした時は文字であっさり挫折した。タイ語とかアラビア語朝鮮語など、言葉より先にまず文字を学ばねばならない。文字には意味がないからひたすらフォルムを体系的にインストールすることになる。つらい。

*1:帯は別に要らないんだけどここまで来ると何だか捨てるのが躊躇われる。ちなみに色んなチラシとかも少し古いのがどっかから出てくると、すでに「古物」らしき相貌に変化していて捨てにくかったりする。この相貌については興味がある。普通に価値のあるものではなく、むしろ取るに足らないはずのものほど、古くなることによってオーラを帯びる。いつでも失われ得たはずのものが失われずに残っているというところに「レア」を感じるのだろう。この稀少性はそれ自体の他に根拠がなく、単に稀少であるがゆえに稀少である。

*2:ロバの名前。

*3:ブレッソンはシネマじゃなくてシネマトグラフという。松浦訳『シネマトグラフ覚書』にはル・クレジオが英訳版に付けた序文が収録されている。「ロベール・ブレッソンは来る年も来る年も、ひたすら同じ問題を問いつづける。それは俳優とモデルをめぐる問いであり、世間ではシネマと呼ばれるがブレッソン自身はシネマトグラフという難しい名称(リュミエール兄弟による最初の魔術のことである。当時の人々は樹々を見て驚倒したのだった、「その葉が動いている」がゆえに)を与えようとするこの未成熟な芸術の効用に関する問いである。」