何かのCMで志村けんと一緒に踊っている研ナオコの動きがすごく良くて、『カックラキン大放送』の記憶とともに野口五郎の秀逸なボケっぷりまで思い出した。久しぶりに見た研ナオコは相変わらず、ヘンな脱力をして、スッとぼけたキャラクターになって、何しろふざけている。不真面目さに信じ難いまでの強度がある。
「不真面目にやる」ことを許してくれる行為がダンスと呼ばれるのだと思う。掃除を不真面目にやったり、宿題を不真面目にやったら怒られるが、ダンスは不真面目にやるのが面白い。そもそもダンスというもの自体が、役に立たない、不真面目な行為だからだ(しかしそんなものですら、学校などでは「真面目にやる」ことを要求される。こういう倒錯が可能になるのも、そもそも学校でダンスをや(らせ)る動機が「不真面目」なものではないからだろう)。
真面目なことは、やはり真面目に行われるべきだが、不真面目なことは、不真面目に行われることを求めるので、それ本来の(当初の)不真面目さは直ちにアイロニカルに乗り越えられてしまい、維持されない。『スペースインベーダー』のような単純なゲームが、『ゲームセンターあらし』のような滑稽な高得点・超絶技巧イデオロギーに呑み込まれてしまえたのに対して、『スーパーマリオ』くらいまで複雑になってくると、もはや誰も高得点を競おうとはしなかった。代わりに、裏技を発見することに楽しみが見出された。しかも、裏技といっても、開発者の意図によって予め隠されたものには大した価値がなく、大事なのは愉快なバグ(プログラム上の事故)を見つけ出すことだった。ゲームがもはや「正常に」進行できなくなるような、驚くべきバグを『スーパーマリオ』はたくさん含んでいた。正規の軌道から逸れて、限界のない空間へ泳ぎ出してしまうこともあった。そして挙句にフリーズしてしまったり、あるいは唐突に画面が真っ黒になってしまったりすれば、「世界の果て」を垣間見るような、何とも不気味なカタルシスと、幻滅が同時に得られるのだった。
こうして不真面目な遊戯はアイロニカルに累乗されていくのだが、やがてそれが、リセットボタンを駆使したり、電源を入れたまま『スーパーマリオ』のカセットを抜き、『テニス』を挿して、抜き、また『スーパーマリオ』を挿す(適当)などといったメタレヴェルにまで達した時、微妙に怖かったのを覚えている。遊戯が膨張するあまり、当の遊戯を成り立たしめる現実の基盤を脅かすように感じられた。端的にいえば、ファミコンが壊れてしまうのではないかと思った(もちろんファミコンは子供には高価で、容易に買えるものではなかった)ということだが、このことは、画面中の遊戯と、経済的な蕩尽が実は階層をなして完全に連続しているのだということを示している。