先日リゲティが亡くなった。背伸びして音楽を聴いていた頃、この人のピアノ協奏曲にハマッたことがきっかけで、ある種の音楽に開眼したという記憶があり、だから今でもそんなに詳しくは知らないのに思い入れが深い。ベルリンに旅行した時に、教会でやっていたコンサートへ行って、オルガニストが高い所でトーンクラスターみたいな無茶苦茶なアクションをしているのを見たこともある(曲名は忘れた)。ブーレーズのフェスティヴァルの時には、ピエール=ロラン・エマールが来日したので、コンサートはもちろん、桐朋かどこかでのレクチャーにも行って、エマールがピアノ協奏曲を弾くのを間近で見た。徐々に広げて、キューブリックの『2001年宇宙の旅』で有名な『アヴァンチュール』などのオドロオドロ系も聴いてみたが、やはりピアノで、晩年まで作曲が続けられたエチュードが面白かった。
前にも書いた気がするが、隣り合った二つの音のどっちが高いのか言えなかったりする(「高い」「低い」という表象システムが身についていない)ぐらいなので、今でも「構造的聴取」には縁がないのだが、リゲティのピアノ協奏曲は、当時のぼくにとっては、「音痴」の世界にも「音楽」はあるのだという発見なのだった。要するに調性(これもいまだによく理解できてないのだが)から外れていても音楽は楽しいということで、リゲティのピアノ協奏曲と、あとシェーンベルクの室内交響曲1番は、正直、鼻歌で歌えるわけはないにしても、それくらいクリアに脳内再生できる。
「音痴」の世界にも明らかに「音楽」はあり、「音痴」の世界でただ直感的に音やその流れやそれらの織り成す紋様に身をゆだねてしまえる時の快感は途轍もない。レールがなく、一切が自由なのに、それでもそこに、カッコいいタイミングとか最高に決まる一撃、細かく細かく均質に揺さぶられる感じ、思いがけない急角度で鋭く侵入してくる金属質、腹の底の方で(低音で)グズグズしていて煮え切らないリズムとかいった、本当に様々な「質」というか「フォルム」がある。そうしたものに対して良いとか悪いとか感じるその感覚が、一体どこからやって来るのかわからない。何か規範に適っているのでは全然ない。
「音痴」であることの快楽。素っ頓狂でけたたましい高音が唐突に大胆に鳴ってしまったり、「調子っぱずれ」なメロディがどこへ向かうのかもわからずグネグネと太く細く伸びていったり、全く規則的でなさそうな出鱈目っぽいリズムなのにノレたりして、ああこれでいいんだ、どこまでも快楽の世界は続いているんだと思える時の解放感は、逆に調性のある(ベタな)音楽を聴きにくくさえする。
リゲティのピアノ・エチュードの第一曲は「無秩序」というタイトルだが、ポリリズムなので無秩序ではなく、むしろ複雑過ぎる秩序がはっきり聞こえるがために、「無秩序」と呼んでしまいたくなるような印象が生まれている。つまり耳が、分析的な表象が追いつかないような速度で音を聞いてしまっているということだ。第九曲は「目眩」というタイトルで、後から後から何重にも音の波が覆い被さって来るような形で上昇していき、その映像を逆回しするようにして下降していくが、本当に目眩が起きるわけではなく、ただ目眩のようなイメージを生み出すような複雑な情報を耳が受け止めている。つまり(少なくともぼくの)耳は、「無秩序」や「目眩」に溺れてしまうわけでもなく、かといってそこから全く逃れて、知的に構造を読み取っているわけでもない。耳は構造と目眩のまさに中間に位置している。空気の震動を受け止めつつ、それを「理解」している、この変換炉のようなものが身体だ。そしてこの混沌の外に一歩出たら、音楽は音楽でなくて、音楽に似た何か別のものになってしまう。