「スター」システムをはじめとするスペクタクルは、それ自体と「観客」との関係を固定し再生産しようとする。いいかえれば、ある「対象」を「見る」ことが人々にとって自明で疑う余地のないものになった時、スペクタクルと「観客」が同時に生まれるのだといえる。だからスペクタクルへの批判は、何よりまず、それを見ることが人々にとって自明でない状況下で始められる。つまり観照(theoria)と実践(praxis)が分化する前の、もっぱら実践が支配する、生活という文脈から、ということになる。劇場とは基本的に、観照と実践の分断を固定する制度であり、舞台に立つ人は観客の集中的な関心にさらされるリスクを負うけれども、その一方で、全く見向きもされないという危険からは免れている点では最高度に安全ともいえる。劇場を選ぶかどうかとは必ずしも同じことではないが、ともかく「生活」にさらされない表現は、多かれ少なかれスペクタクルに守られている。劇場は文字通り表現にとっての「限界」である。
生活という文脈の中で、資本(差異、強度、力)が「絶えず新たに、あらぬところから生み出され、流通させられる」というのはどういう事態なのかといえば、生活に何か別の価値が侵入してくるということだ。その場合、単に異物を挿入するというようなやり方は、力を流通させるという点において十分ではない(大道芸人は早晩「芸能人」(=賃労働者、あるいはスター)になるだろう)。生活者の身体に直に働きかけ、変えるのでなければ、身体と身体の関係を流動化することに成功しているとはいえない。つまり生活者の、ある方向へと向けられている力を、別の方向へと曲げる、また、ある体系をなしている諸力を、別の体系へと誘導するということだ。ほうほう堂がやったのは、例えば船が動き出すのを待つ間に、船は実際にはまだ動かないのに気持ちだけが動き出してしまい、それが貧乏揺すりとなって体に現れる、というような乗客の身体感覚を増幅して形式的な遊戯に仕立て上げることだった。踵を上下する動きを強調するため、他は無駄に動かさない直立姿勢で、無表情を保ったり視線を中空に据えていたりする。その身体を見ることで、自分の身体に気づかされるという回路の設えが絶妙に調節されていた。
勘違いされてはいけないのは、こうした遊戯が決して「生活を豊かに」はしないということだ。むしろ踊ってなんかいれば生活は生活として成り立たなくなるのである。身体はある秩序を脱して、別の秩序へ、そしてさらに、多様な秩序そのものを可能にしている無際限な空間へ滑り出して行く。行為が目的から切り離され、何の正当化も背後に控えていないような規則(法)が剥き出しになる。遊戯の無用性は宇宙の究極的な無償性と対応している。「神々はその原理として、永遠であるがゆえに無尽蔵な存在を表象することをみずから明らかにする。永遠であるというのは、目的を欠いている、すなわち無用であるという理由においてのことなのだ。このような側面は、時間的にも空間的にも自己の存立のための目的をもたなければならない国家にとっては恐怖すべきものであり、したがって、それをかなり曖昧なイメージのもとに隠したままにしておくことが必要となる」(クロソフスキー古代ローマの女たち』、平凡社ライブラリー、17頁)。この危険さに比べて、遊戯と労働の過不足なき一致、というような澁澤龍彦流の「快楽主義の哲学」は、結局のところ労働も遊戯も大して真剣には考えていない、ヌルい、保守主義の哲学だといえる。ダンサーが身体を人々に差し出して共有化を促すというのは、当たり前だと思っていた生の基盤が揺るがされるということなのだ。
また生活を出発点としつつ、生活でない何らかの生のあり方へと向かおうとする以上、身体がただ共有されていることの確認に終始するようなダンスでは意味がない(そういうものはスペクタクルの制度的な枠組に奉仕する以外に何の機能ももたない、いわば一般投資家か土木作業員だろう)。むしろ生活者の身体を覆っているイデオロギー的な表象を破壊するだけの力が要る。つまり一方では生活の水準に接していつつ、他方ではそこから強力に離脱するのでなければならない。本当に誰でもできるような、どうでもいいようなダンスでは足りないのだ。そしてその意味で、ほうほう堂のダンスに、その「弱々しい」見かけに反して(あるいはそれゆえに)独特の「強度」があるということがいかに稀有であるかは認識される必要がある。