しかし思ってみれば、キノコは(とりわけ2000年の『フリル(ミニ)』以降、と但し書きをつける必要はないかも知れない)ほぼ一貫して、日常性とスペクタクルの問題に固執してきたのだった。今回のソロも例外ではなく、冒頭から「スター」のパロディが行われる。スターが人の前に「出る」、の反対が、「潜る」なのだ。しかし本当に「潜る」=「出ない」のでは意味がないし、「踊らない」でも同じくダメだ。だから踊るのだが、踊りつつ、スペクタクル性を消去する身振りを懸命に行う(例えば「キッチン・ドリンカー・ダンス」)。この辺りのジレンマは、ポストモダンダンスと完全に重なる。レイナーの『トリオA』はまさに天才的かつ超人的な解決を提示したわけだが、このジレンマの一方には、アンナ・ハルプリンのように、究極的には観客に見せるために踊ることを放棄し、あくまでも実践者の経験(エクスペリエンス)に「潜る」というパターン、他方には、自分のために踊ることを放棄し、踊ることの不可能性のアイロニカルな提示(完全に純粋で不毛なスペクタクル)に終始するというパターンがある。
しかしスペクタクル(資本)を全否定してしまったら、それは「観客」のいない単なるフラットなお祭りになってしまうわけだが、そういう事態は、実は論理的にありえないだろうと思う。資本と「観客」の関係は常に何らかの形で保たれるだろう。問題は資本そのものではなく、資本と「観客」との関係が固定され、さらに「観客」がその関係をますます支持することに満足してしまうような事態(「スター」システム)が、価値観を硬直させ、現状の肯定を促し、自由を抑圧するという構造なのだ。だからむしろ資本(差異、強度、力)は絶えず新たに、あらぬところから生み出され、流通させられるべきなのだ。
それで、今日のほうほう堂に感動してしまったのは、混雑した水上バスという環境の中でありながら、というか、そうした環境を信じられないほど見事に分析して、匿名の人々の集団の中に「力」を流通させることに成功していた点なのだった。船に乗っている人々の心理や感覚をまずはなぞってみるという、過去のこの企画の中でも案外ありそうでなかったアプローチで、この二人は次から次に別の人格、別の瞬間へと切り替わり、それでいてまるで鏡に映った自分の姿を見せられているような感覚にさせられた。つまり誰にとっても自分と交換可能な、平凡な誰かの身体、というか、誰ででもあって、それゆえに誰ででもないような「誰か」としての身体、いいかえれば「生きた貨幣」だった。ほうほう堂のパフォーマンスで、こんなに「身体」を感じたことはない。しかしこうして、「スペクタクルを批判する(=日常性を演じる)」という、それ自体は実は瑣末で非本質的な手続きに煩わされず、じかに強度を流通させ、身体と身体の関係を流動化させることこそ、彼女らの真のポテンシャルなのではないかとすら思った。