コジェーヴ能楽とか茶道とか華道とか切腹とかを取り上げながら日本人の「スノビズム」(歴史的意味を欠いた純粋な形式的価値の文化)を論じているけどその後ももちろん歴史は終焉を迎えたわけじゃなかった、とかいったようなことをジャカルタで話題にした時、「それってみんな武家階級の文化だね」という、鋭い、自分では思ってもみなかったということが恥ずかしいくらい当然の指摘をされたのだが、今日関西のKさんと話していたら、近年の「オタク」とかの日本のイメージは基本的に東京で作られてて関西のものじゃないということを言われた。これもまた鋭い指摘であると思う。そもそも日本は「日本人」が住んでいる均質な空間だという認識(大雑把にいって「ナショナリズム」)はどこから生まれたのか。テッサ・モーリス=鈴木『辺境から眺める』[amazon]では「鎖国」というプロジェクト自体がアイヌという異民族への同化政策を(隠蔽しつつ)内包していた事実に触れている。つまり鎖国なんていっても「異分子」は予め内側に含まれていたのであって、むしろそれを抑圧する(なかったことにする)のでなければ「日本人」と「日本」の一致など不可能だったということだ。この点でもやはり鎖国を「歴史以後」の生と見なそうとするコジェーヴの立論は破綻するわけだが、ナショナリズムが対外的にアイデンティティ(主体性)を主張しようとするものである以上、国の内部が中央集権的に構造化されることと、その国をめぐる表象(ステレオタイプ)が政治・経済的な中心である首都のそれによってすり替えられるのとは同じ事象の裏表なのだろう。