火曜、千駄ヶ谷でミーティング。ちょっとずつ前進。終わって神楽坂へ移動していつも行くラーメン屋、しばらくして箸をつけた頃、混んでもいないのに近くに別の客が座って店員に「タバコいいですか」と聞き、店員はあっさり「いいですよ」と答え灰皿を持ってきた。その場で席を立てば良いのだが生活は苦しいのであって堪えた。せめて隣の客にも何か一言ないのか。その場合たとえ「タバコいいですか」というセリフが体よく問いの形を借りた圧力に過ぎないとしても(「いい」わけがない)、そこまでしてタバコを吸いたいのだという我侭を表明することの恥辱を代償として差し出されれば、こちらもまた無下に断るよりはいくらか弱い、「倫理的な優越を味わう」ということの罪悪感でもって済ませることができ、結果としては喫煙者の我侭も通る。つまり悪は量的には確実に減少するのだが、男と店員がこんなささやかな努力すら怠ったということが煙そのもの以上に腹立たしく、味覚は麻痺してしまって、何もかも台無しになった。臭いを出すという一点において喫煙と放屁の間に何ら違いはないが「オナラいいですか」などと口にする人は稀であろう。つまり喫煙をめぐる交渉や争いは少なくともここでは十分「人間的」な文化の領域に属している。それなのにだ。良心ある喫煙者たちがこうした非道徳的な喫煙者を「身内」で咎めるよう努めなければ禁煙ファシズムを食い止めることはできないだろう。その後、ダンスを見に行ったらTさんに会った。
月曜、テッサ・モーリス=鈴木『辺境から眺める――アイヌが経験する近代』('00、みすず書房)[amazon]をかなり興奮しながら読む。
日曜、国立劇場へ11月の「舞の会」のチケットを取りに行き、半蔵門駅近くのカフェでwonderlandの北嶋さんとお話する。北嶋さんとは前に一度お会いしたことがあり、今回はメールマガジンへの寄稿の件だったのだが、それでやっぱり、業界紙向けに書くのならともかく、そういう枠を外して考えると、本当に今書きたいと思えるようなガツンと面白いダンスが何もないです、という言葉が自分の口から出て軽い衝撃を受けた。しかしこれを単に個人的に「アジアおよびNY以後」という風に片付けてしまうのは、つまり自分の中で価値の激しい相対化が起こったために無邪気に主観を信じられなくなったのだという風に説明して安心してしまうのでは、あまりに悲惨だし、そもそも何か根本的に間違っている気がする。94年に初めてフォーサイスを見た時、ぼくは何の予備知識もなく、ダンスなんていうコンテクストすら全く知らないまま、つまり圧倒的に「異文化」に属するものとしてフォーサイスにガツンとやられたわけだが、そこでフォーサイスをいくら「ヨーロッパ地域の文化」なんていう特定の文脈に還元してみても、価値の大きさは少しも相対化されたり相対的に小さな(矮小な)ものになったりはしない。もっとも当時の自分だって真っ更な心をもっていたわけではないのだから、フォーサイスというより自分とフォーサイスとの「出会い」が良かったのだとはいえるかも知れず、そして知識が蓄積されるにつれてそういう経験が得にくくなるということも確かだろう。しかしもしこの世にアートというものがあり、あるいは創造性という価値観が許されるのだとすれば、アートに対してそういう「圧倒的」なものを求めることは誤っていないし、むしろ全力で希求されるべきと思う。
もちろん何の予備知識もない状態と、知識が蓄積されてしまった状態とを同列に扱うことは誤りで、むしろ知識が蓄積されてしまった状態からいかに創造性へと開かれることができるかということこそが作り手の側にも等しく当てはまる課題だろう。いいかえれば、常に「フレッシュ」であるにはどうしたらいいのか。「フレッシュ」とは要するに「無知」ということだが、では無知でなくなってしまった時にいかにフレッシュであれるのかといったら、これはどうしても無知へと遡行するという手続きを踏まざるを得ない。以前から折に触れて考えていた問題だけれども(とりわけ室伏鴻を見ながら)、たまたまこの日、北嶋さんと別れてから門前仲町へ行って見た(参加した)手塚夏子の「カラダカフェ」というイヴェントで改めて強く意識させられることになった。手塚夏子がやっていることは、体への尋常ならざるこだわりなのだが、この前オーストラリアへ行って現地のダンサーを対象にWSをやったら、「左肘裏を意識する」などという時の、そもそも「意識する」というのが相手に伝わらなくて困ったということだった。普通に「内感」とか「定位」の問題だと思うのだがそれが伝わらない。そこで手塚は抽象的な指示の仕方をやめて、色々な具体的な経験とかイメージに置き換えて指示してみる方法を考えたらしい(胸に目があるイメージ、とか、聞いていると今まで以上に土方巽に近くなっている)。この日の話の内容は、そういう様々な体の感覚的な経験のことばかりで、実際に全員で梅しばとチョコを口に入れて、酸っぱさが体にどういう反応を起こすか、甘さはどういう反応を起こすか、ということをやってみたりした。特定の部位に反応が出るという人も多かったが、ぼく自身は、チョコを食べた時に全身が一気に緩み、座った姿勢ゆえ腹筋から力がスーッと抜けていって、それが梅しばを食べた時の全身の硬直感と鮮明なコントラストをなしたのが強烈だった。こういうことはおそらく全く知らなかったわけではなくて、むしろいつも無意識の内に経験していたことなのだが、無意識に知ってしまっているということは既知の領域と考えて安心して見過ごしているということでもあり、だからそれを意識する、新鮮に出会うということは無知な自分に帰るということでもあるだろう。普通、知ることは知識(既知)を積み上げていくことだと考えられているが、逆に知れば知るほど無知へと落ち込んでいくという風に考えることもできるのだ。つまり既に形をなしてしまっているもの、あからさまに目に見えることによってそれ以上は見ずに済まされてしまっているものを、その形態をそもそも可能にしている条件や基盤のレヴェルまで戻して見ていく。既知のものに屋上屋を重ねるのではなく、このようにしてどこまでラディカルな遡行を行えるかが、「フレッシュ」と「無知」への鍵であるに違いない(屋上屋を重ねるにしてもこの条件をクリアしていなければ大したことにはならないのだろうが、俗に「基礎に始まり基礎に終わる」とかいわれるこの「基礎」を易しい入門用のマニュアルとして想定するのもたぶん権威主義的な単純化に過ぎず、基礎とは実はどこまでも深く陥没していく泥沼の底のことなのであり、「基礎に始まり基礎に終わる」というのは「どこまで掘っても延々と泥ばかり出て来る」という風に理解されるべきではないのかと思う)。
手塚のパフォーマンスは見た目には確かにとても「内向的」なのだが、「内向的」と「自閉的」とは一般にあまり区別されていない。しかし内へ向かうということは実は外に立つということでもあるから、単に引きこもるのとは全然違う。引きこもるというのは安全な場所から外ばかり見ていて自分を見ないということである。また表面上「外向的」に振る舞うことによって、実際には外部を征服して既知なるものの輪をできるだけ拡大しよう(そして最終的には閉じよう)とせずにいることの方が難しいようにも思う。『私的解剖実験−3』は前に「芸術見本市」で一度見たきりなのだが、今回は「リクエスト・ヴァージョン」といって色々な指示を観客が書き、それを一枚ずつ見せられた手塚が様々な反応を見せるという仕掛けになっていた。正直なところそれまで色々話していた内容は手塚自身が実践していることのまだほんの一部に過ぎないように思えたのだが、ともかく「ダンス」だとか何だとか(あまつさえ「作品」だとか)呼ばれうる以前の身体をあれこれ掘り返しているその姿勢が希望を与えてくれる気がした。少なくとも既成の社会的・文化的コンテクストの中に(何らかの形で多少なりとも優位に)位置付けられることを目的としているような行為では全くなさそうなのが痛快だった。「ダンスとは何か」を問うことも良いが、作り手がそのように問うとすれば、「ダンス」という抽象的な観念を前提として出発しながらその様々なヴァリアントを生もうとするのではなくて、身体の欲望が何でもいい何らかの形をとって「踊り」出した時にあくまで結果的に成立するものが悉く「ダンス」と呼ばれるべきものなのではないか。ダンスはそれを目指して策を弄しても生まれないが、そんな観念に捉われずに何かにこだわり抜けた時にはそれは必ず「ダンス」なのではないか。