下で書いたことの続きでいえば、BABY-Qの新作の音楽には中原昌也暴力温泉芸者ヘア・スタイリスティックス)がクレジットされている。曲を提供しているだけかなと思ったらスタッフとしてシアタートラムに普通にいた。先日『エルマガジン』に前パブ記事を書くために暴力温泉芸者のCDを引っ張り出してきて久しぶりに聞いたがやはり良い。彼の小説は意図が見え透いてしまって全く笑えないのだが、音楽はたとえ来るぞ来るぞと分かっていても笑ってしまう。留守番電話の「ハイコンドウデゴザイマス」という甲高い電子音みたいな声のサンプリングらしきものに、さらに甲高い「フィー!」という音の連打が合いの手を入れるだけのトラック(というかテープの一部分)があって、これとてやはり「フィー!」という音のみならずその音を出している指の動きやその呼吸までが目に浮かんでしまうのであり、「意図が見え透いて」いないわけでは全くない。しかしボタンか何かを押す指の動きと、それが必然的に生じさせる音の現れとの間には何か埋めようのない飛躍があり、おそらくは本人も「押す→音が出る」の連関が愉快で仕方なくて押し続けている。愉快さと、それをあえて押し殺したり制御したり解き放ったりすることの快楽までも音楽から感じることができる。それが『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』のような小説になると、やっていること自体はおそらく変わらないのにその作為性ばかりが鼻について白けてしまうのは媒体の特性(それも特に作り手の側へのエフェクト)の違いによるのだろうが、それが単に計算の浅さであるとしたら、「フィー!」の一々が醸し出すどうしようもないヒット感、「今」ということの神秘は、ひとえに単位時間当たりの計算の量いいかえれば速度に還元できる。生体の速度は全く侮れない。というか何事につけ何かが「決まる」瞬間、常にこういうことが起こっているのだから、もっとまともに恐れられるべきと思う。
電車の中で、若い女の二人組がずっとパチスロの話をしていた。ぼくはパチスロとかあまりよくわからないのだが耳に入ってくる彼女らの話は、もちろん主題がギャンブルである以上当然とはいえ、何の因果関係も説明されない出来事の報告だけから成り立っている。純粋に叙事的な会話、二人は解明も推論も不可能なエピソードを延々と交換し合う。「出る時はちょっとぐらい台を動いても結構また出たりする」「ちょっとでもアツいなと思ったら一応5000円までは回してみる」云々。