シモーヌ・フォルティが時たま「影響を受けた」と言及していたりして前から気になっていた日本の「具体」なのだが、一昨年の兵庫県立美術館での回顧展の時に出た『「具体」って何だ?』('04、美術出版社)という一体誰におもねりたいのかわからないタイトルのカタログのような書物を引っ張り出して見てみたらこれが笑ってしまうほどエネルギッシュで圧倒された。おかっぱヘアに丸い牛乳瓶底のメガネで紙を突き破る村上三郎の姿は有名だが、超巨大な光る人形を作った田中敦子だの、白髪一雄の『超現代三番叟』だの、そしていつも写真の真中でふんぞり返っている古典的「父親」としての吉原治良が旧石油タンクの中に貯めた水の上にオブジェとともに満足気に浮かぶ姿、透明のヴィニールやら布やらが張り巡らされて海水浴客が見に来ている芦屋公園の光景、難波の高島屋の屋上から伸び上がるバルーン、土蔵を改造した「グタイピナコテカ」、来日して世界的に「具体」を盛り上げるフランスの批評家とその名声の短命ぶり、ラウシェンバーグ、デ・クーニング、ケージ、透明のパイプから吹き出す泡の作品、煙の作品、万博のお祭り広場における「具体美術まつり」と二台の化学消防車が噴射する泡によるそのフィナーレ。
とにかくこの眩しさはただただ「アクション」というか「行動」のそれであり、「運動」としての持続を考えた時点で既に終わり始めている。ほとんど始まったと同時に集団としての命運はお定まりのストーリーをたどり、延命を巡る卑小な政治に汚染されることになる。「やる」ことと、「続ける」こととは、何て違うのだろう。具体は舞台作品も盛んにやっていて、62年には大阪の森田モダンダンス(森田正弘・益代)と組んで上演したりもしているのだが、かえって、やはりダンスはアクションじゃない、つまり持続とは単なる行動ではない、という思いを強くさせられる。ダンスの始まり、持続の始まりと、持続とは、いったい何の関係があるのだろう、あり得るのだろう。おそらく人は、「持続」を「開始」したいと思うことはないんじゃないかと思う。しかしやはり、何といっても、持続なのである。