四世井上八千代が亡くなった時のNHKの特別番組を、VHSの3倍録画からまず一度デジカメに移し、それをPCでキャプチャーしてDVDに落として宝物にする作業にようやく手をつけ、それで何となくTVをつけたら立花隆アメリカのサイボーグ技術の最先端をレポートするドキュメンタリーをやっていた(2005年に制作されたやつの再放送)。もうかなり終わりに近かったのだが、今や脳に電極を埋め込んで電気信号を直接取り出し、それによって義手を動かせるばかりか、脳からケーブルをコンピューターにつないで画面に線を描いたり、TVのスイッチを入れてチャンネルを変えたりできていて、目が釘付けだった。何やら相当にヤバい、しかしこの「ヤバい」って気持ちは一体何なんだろうと思ったりしていたら、追い討ちをかけるかの如く、今度は逆に、脳の電極に直接電気信号を送り込んでマウスを自由自在に操っている映像が出てきた。運動を司る脳の一部分に、「右に進め」ないし「左に進め」という指令を送り込み、指令通りに動くと快楽中枢に刺激を送って「報酬」を与えるのだという。そうやってノートパソコンと無線で操作されて、マウスは複雑な迷路を通り抜けたりしていた。さらに背中に、マウスにとってはそれほど軽くはなさそうな小型カメラを搭載してヨロヨロ歩かせれば、人が入れないような狭いところにも入っていって災害救助に役立てられる。とはいえ研究予算を出しているのはもちろんペンタゴンである。
しかしここで何か直感的に「ヤバい」気がするのは、たぶん、技術が悪い方向に利用されたら危険だからではない。「技術自体は善でも悪でもない、要はそれを人間がどう使うかなのだ」という紋切型な警句で番組は締められていたけれども、技術なんてものは開発されてしまえばそれまでで、技術的に可能なことを倫理的に抑制することができるとは思えないし(核にしろクローンにしろそうだった)、そもそも可能性が露わになってしまった時点で、何しろそれはもう可能なのだから、「最悪」の事態も含めて可能性の幅そのものは決定的に広がってしまったわけなのだ。可能性と現実との間の距離が(ほとんど)問題にならない以上、我々はこれを現実として受け入れなくてはならない。海馬を模したチップを作って人の記憶を取り出したり交換したりということまでもはや実現しかかっている。
こういう事態が恐ろしく感じられるのは、「最悪」の事態が想定されるからではなく、それが純粋に物質の論理の中で完結しているからだ。ふとヴィデオカメラの小さいモニターに映っている四世井上八千代の踊りが目に入った瞬間、そこで行われていることのあまりの異質さに驚いてしまった。サイボーグ技術の世界にはなくて、ここにあっけらかんと、あまりにも無邪気に繰り広げられているものは、価値(意味)の世界だ。つまり物質の論理というのは、いいかえれば、価値や意味を超越しているということなのだ。「技術自体は善でも悪でもない」、つまり技術の前では善も悪もその道理を失う。善の「善」性、悪の「悪」性、要するに価値の価値が拒まれていて、その圧倒的な無意味さが怖れを喚起するのだ。
そしてこのことは同時に、京舞の至芸の世界の価値は、サイボーグ技術の最先端の世界によって何の害も受けることはないだろうということでもある。価値(意味)を超越した世界は、価値の価値には触れることもできない。他方、価値はその価値の価値を必然的に生み出して行くことになるし(もちろん肯定か否定かは問題ではない)、また価値の価値には、さらにそれの価値があり、さらにそれの価値がある、という風に無限の遡行が許されてもいる。何て素晴らしいことなんだろうと思う。