ダンスに予定調和を求めまいとする限りなかば必然とはいえ数を見れば見るほど憂鬱な気分が深まっていくのは、徐々に日が短くなって駅から劇場までの道が既に暗いということとも関係があるのだろうか、何か一昨年くらいからどうも冬が苦手になってきた、冬が来ると暖かい南に逃げ出そうとする一部のヨーロッパ人たちの気持ちとはもしかしてこんなものなのかななどと思いつつ、個人的動機の強い仕事は一向に進まず、個人的動機の弱い仕事は意味もなく面白かったりして、げっそりしていたのだが、ルイーズ・ルカヴァリエを見て元気になれた。いいダンサーがいれば「作品」だの「振付」だのは別に何でも構わない他のどれにでも交換の利くただの「設え」としての地位を露呈する。ラララ・ヒューマンの頃は、「凄い」とは思っても別段「いい」と思ったことは正直なかった。しかし2本のデュオと1本のソロで見せる多様な幅、とりわけ最初の今津雅晴とのデュオが始まった瞬間のその特異な身体の相貌、筋肉質ゆえの奇妙な軽さと脱力感のプレゼンスはこちらの身を奥から柔らかく侵食してきた。さらには目で追っているのにいきなりこちらの視線が追い抜かれ、見逃したその動きを数瞬遅れて自分の体が目に教えてくれるということも何度かあった。「滑らかさ」などとは無縁の、むしろ小さな動きがどこまでも細かく分割されて精密な部品が微かにチャリチャリ音を立てながら傍若無人の構想を容赦なく気ままに実現していくようなこの機械じみた感触。