やはりアクラム・カーンのことを知ってる人は奇妙に思ってるみたいだが、今週末の埼玉公演に関するメディアの情報がことごとくカーンは「西洋コンテンポラリー・ダンスとインドの古典舞踊様式『カタカリ』をユニークに融合させ」たとなってるので、改めてチラシを見てみるとそこにもそう書いてあり、プレスリリースも全部「カタカリ」となってるのだった。カーンがカタカリをやってるというのは聞いたことがないし、本人のサイトを見ても「カタカリ」については一切書かれてない。これは「カタック」が「カタカリ」と混同されてるのだろうと思う。
カーンはれっきとした古典カタック(Kathak)のダンサーでもあるので、仮にカタカリ(Kathakali)をやってたとしても、プロフィールにカタックのことを全く書かないでそっちを記すということは考えられない。ただしこの混同の起点がどこなのかは曖昧で、というのもリリースに紹介されている原文フランス語と思しき複数のレヴューの日本語訳の中にも「カタカリ」とあるから、訳者が間違えたのか、もとの執筆者二人が同じ間違いをしてるのか、それとも本当にこの作品ではカーンがカタカリを参照してるのか、一応三つの可能性を想定できるが、抜粋映像を見る限り、もろにカタックだから、残念ながら日本公演の主催者はカタックとカタカリの区別がついてなかったものと考えざるを得ない。
これは単なる揚げ足取りじゃなくて、つまりカタックとカタカリの区別がつかない人が「西洋コンテンポラリー・ダンスとインドの古典舞踊様式『カタカリ』をユニークに融合させ」たと発話するということは、その人は自分のいってることの意味をその程度の水準でしか理解してないということであり、その程度の内容しかない発話が、受け手に対して何か情報や効果を与えるとすれば、それもまたその程度の内容しかない情報や効果だろうということでもあって、さらにその薄いコミュニケーションの背後には、欧米人のいうことは基本的に鵜呑みにしていい、というか、鵜呑みにすべきなのであり、インドのことなんか知らなくても別に恥ずかしくはないというような、あからさまなヨーロッパ中心主義が横たわってるだろうということが、いいたい。
ほとんどの日本のメディアは情報を適当に編集して横流ししてるだけなので、「カタカリ」っていわれても、知らないからちょっとググッておこうとすら思わないのだし、本人のサイトには Kathak って書いてあるなとか気づきもしない上に、それでいいのだと思っている。そしてそういう無責任なスペクタクル的発話者の反対の端には、「インドの古典舞踊様式『カタカリ』」って聞けば何かインパクトを受けた気になってしまえる無責任な受け手がいる。
たまたま最近読んだ中に、ブルデューの『ディスタンクシオン』から「学校市場」と「社交市場」という概念を借りてきて、日本の「現代思想」なるものの成り立ちがこの二つの「市場」の形態の結合の上に成り立っていると分析している論文があった(渡辺彰規「盛り場の知・学校の知」、北田暁大・野上元・水溜真由美編『カルチュラル・ポリティクス1960/1970』、せりか書房、2005 [amazon])。「学校市場」というのは「秩序だった深い体系的知識」が重視されるような能力評価の磁場で、「社交市場」というのは知識や理解の深さではなく「個々の対面的状況においてどの程度相手に対して優位に立っているか」を競い合うような、いわば社交上の振る舞いの能力が評価される磁場だという風にまとめられるのだが、70年代にはこの「社交市場」的な形態において、新奇な情報が一種の形式的な「力」として振り回された。「社交市場における知とは、いわば、深い理解というよりは単に知っていることが重視され、精確さよりは新奇さの方が尊重される」(145頁)。そこにはいわゆるアカデミズム(学校市場)的な鈍重さを免れる長所もあるのだが、情報が対面的なコミュニケーションの枠を超えられないので、自閉する。80年代のいわゆる「現代思想」はこれを克服したもので、社交市場的な知に学校市場的な体系性を与え得るような「先生」(=ニューアカ)の登場によって成立したというのが渡辺の論旨だった。しかしそこへ来て今、アクラム・カーンがカタカリ呼ばわりされているのを見てしまうと、ポストモダン的な「知のマニュアル化」というやつが、「記号の戯れ」とか「相対主義」とか「スーパーフラット」とかいうところまで続いて来て、でも本当は全然「フラット」なんかじゃなく、それはむしろ、例えば「フランス>インド」のような歴然たる価値付けの序列(凹凸)を覆い隠す大がかりなイリュージョン(まやかし)であり、また可視性や表層に執着することで逆に見えないものを「無」化するロジックであるようにさえ思えてくる。
これは「島国根性」といい換えてもいいと思う。それは実際に「島国」が閉ざされた空間であるという事実ではなく、「閉ざされている」「閉じている」という疎外の表象によって逆に安心を得ようとするメンタリティのことだ。外界から隔てられているということは、内部には差異がなく均質(フラット)だということにもなり、もちろんそんなのは嘘なのだけど、その嘘を共同で支持するように人々を促している力が、どこかで明らかに働いている。