初めて大相撲を見た。相撲の立会いの瞬間というのは全くスポーツ的でない、つまり客観的な時間の計測から切れた力士同士のイキに委ねられている。一瞬の契約を交わすために陰謀、密約、偵察と情報操作が積み重ねられ、しかもその契約とは互いを殲滅し合うために交わされる。取組みが始まれば二つの体にはあまりにも多くのことが起こっていて、いくつもに分かれた肉のクラスターが連絡し合って活動するために一つの体が集団というか「部隊」のように見えてくる。力士の体は無駄な肉のない引き締まった体に比べて機能的な分節の度合が弱く、いわば流動性が高くて、エネルギーの流れや、勢いとかの果たす役割が(肉体的にも視覚的にも)ダイナミックに迫り出している。力関係の変化のうねりが曲線的で大きく、見ていて引っ張り込まれるし、それでいて一瞬で形勢が逆転してしまう危うさに開かれているから、勝負が決まる瞬間は思わず拍子抜けするほど呆気ない。
相撲の前に、アジアダンス会議の最終日のゲストで参加して頂く沖縄県立美術館(仮称)の前田比呂也さんとミーティング。今回「沖縄」というテーマを導入したのは、沖縄は色々な点で東南アジアとも近く、また日本という国家にとっての「内なる他者」でもあり、その微妙なポジションは日本で開かれる「アジアダンス会議」という場にとって必ず重要な意味をもつと考えたからだった。もちろん外からイメージする沖縄と、沖縄の人々にとっての沖縄は全然違うのだが、外と内というのは必ず絡み合って何らかの動きを形成しているから、どちらかがよりオーセンティックだということではないはずで、むしろ両者が絡み合って動いているその力学をきちんとつかまえたい。
前田さんのお話で面白かったのは、まず「アイデンティティ」といった時に、任意の(主体的に選択される)それと、社会的に共有される(関係の中で配分される)それとがあって、両者は必ずしも一致しないということ。沖縄にしても香港にしても「返還」というか「復帰」というかで意味合いが全く違ってくる。しかしそもそも完全に主権を剥奪されたことのない共同体が歴史的な連続性を保っているという表象を割り当てられた「日本」の国民には、そういう主体性の力というものが意識しにくくなっているのではないかと思った。
もう一つは、琉球舞踊などでも観光客向けの産業になってくると、わかりやすいインパクトが求められて、踊りの核になるような「質」が見失われてしまうということ。「質」というのは確かに曖昧で、また秘教的なものになる危険とも背中合わせなのだが、説明しづらいだけに、分からない人には分からないし、分かる人には分かるものであり続け、しかし結局は、踊りの価値というのは、つまり絶対にその踊りでなければならないというような切実な価値は、ここに尽きると思う。この問題は、バリ舞踊なども状況は似ているが、ぼくにとってはコンテンポラリーダンスに当てはめて考えた方がリアリティがある。コンテンポラリーダンスは、振付とダンスを切り離して考えることが少なく、しかも振付というのはしばしばアイディアのことであったりして、いわばアイディアを実行するのがダンスだということになっているように思えるが、もしアイディアしか問わないのなら本当は誰が踊ったっていいことになる。アイディアは、まあ面白いけれども、良い踊りの感動はそんな程度のものでは全然ない。観光産業化した琉球舞踊の場合は、観光客がやって来て、一回だけ見て、帰るが、コンテンポラリーダンスの場合は、そもそも観客が古典を見る人たちとは違うし、作り手の方があちこちツアーしたり外に出て行って新しい観客に出会うことの価値を信じ込んでいたりする。「質」を問わない観客にばかり見られている点はかなり近い。
見せるために踊るのではなく、踊るためだけに踊る、という文化のあり方について。誰もが踊るような社会は、必ずしも劇場文化を必要としないのだが、コンテンポラリーダンスは劇場というかスペクタクルの形式を直接の出自にしているところがあって、そこはあまり疑われていない。美術館のロビーで踊ればいいとか劇場を使ったらスペクタクルだとか一概にいうことはできないし、「誰もが踊るような社会」という均質性が何によって保たれるかといえば、それは相互監視的なムラ社会としての側面も否定できず、冠婚葬祭などの場で踊ることが社交のツールになっているというのはぼくにはかなりつらいけれども、可能性は他にももっとある。そもそもダンスは、劇場文化でもなく、誰もが踊るような社会でもない、人と人の自由な関係というのを含んでいるものなのではないか。というか、踊っている身体は常に踊っているわけではないし、見ている身体も、見ていたり、踊っていたり、飽きて他の事を考えていたりもするのに、それをないことにするのが劇場文化やムラ社会なのではないか、と考えた。いいかえれば個々の身体を何らかの主体や客体としてアイデンティファイし、その意味付けを固定するような機構が存在している。ダンス的な経験においては、実は主体も客体も曖昧に揺らめいているし、身体と身体の関係も色んな風に変わる。そもそも身体そのものが切れたりつながったりしている……リアルなところは本当に語りづらい、というか語りづらいからリアルなのだ。
資料として72年に出た岡本太郎の『沖縄文化論――忘れられた日本』(中公文庫[amazon)を読む。タイトルには時代を感じるが、岡本太郎の沖縄滞在はそもそも琉球舞踊に惚れ込んだのがきっかけらしく、踊りについてもかなりしっかり書いている。