踊る人を見るということは、鏡を見ることに似ていると気づいたのはたぶん Noism04 の『SHIKAKU』(04年)を見た感想をこの日記に書きながらだった。身体感覚と身体の表象とはどんな関係にあるのかという疑問が、ここのところ何かにつけて浮上して来ていて、例えばレイナーの We Shall Run やパクストンの Satisfyin Lover には「「人間 people」を表象=再提示(re-present)しようとする明確な意図が働いていた。すなわちこれは、観客が自らを「人間」として自己同一化することを促す、いわば「鏡」のようなパフォーマンスなのである」と書いたりしていた(「ポストモダンダンスについてのノート(6)」)。
この前、甲野善紀ドキュメンタリー映画を見ていたら、甲野が人に動きを説明する時、梃子などの仕掛けや、図形のイメージを頻繁に用いていて、この同じ問いが浮かんできた。体の動きの感覚を変えようとする、あるいはそれを確認しようとする時、体の感覚そのものによって直接するのではなく、体の外に一旦イメージを作って、それを体の感覚に戻して来る、ということを甲野はしている。なぜか。自分の体を見ることはできないからだ、と考えた。自分の体は、見えないので、それは常に内側からの感覚に、想像でもって肉付けした、あやふやなものでしかない。あるいは、外にある知覚対象との関係によって、規定されたり方向付けられたりする。ともかくそれは、「思った通り」にはできないものである。なぜなら「思う」ことはイメージであり、「動く」ことは究極的には意識の外にある物理的なプロセスだから、両者はどうやっても一致しない。
先日のアクラム・カーンとシディ・ラルビ・シェルカウイの舞台は、どちらかというと二人の間の差異を超えた、あるいは差異の基底にあるような「身体の零度」にフォーカスしようとしているように見受けられたのだが、しかしそもそもどうして異なる二者の間の共通分母としての「ゼロ」が設定し得るのだろうということがわからなくなった。同一性を前提とした上での差異ではなく、そもそも差異を可能にする同一性の前には、単なる内とも外ともつかない感覚があるだけではないのか。作品中にはやはり鏡のモティーフが頻出するが、なぜ鏡が鏡として機能するのかというところまでは考えられていないように思った。
あまり深く理解できていないのだけれども、ピエール・ルジャンドル「鏡」についても「ダンス」についても論じている(この二つがどこまで連関しているのかはフォローできてないが、彼がダンスを論じた著作の題は『他人であることへの情熱』という)。それで大澤真幸ルジャンドルについて書いている文章の中で、まさに上のような問題が扱われていた。

ナルシスがそうであったように、人は鏡や水面に映ったイメージを経由して自己を知るのだ。そこで、提起しておきたい第一の問いとは、まったく単純なものである。なぜ、人はイメージを「自己」として受け入れるのか?
〔…〕
内側から知覚・感覚する自己の身体と、自己の身体の外部に対象化されている像とは、似ても似つかないものである。〔…〕鏡に映った自分の顔は、まずは、他者の顔として体験されるはずである。


大澤真幸「ドグマ人類学――二つの疑問」、西谷修編『〈世界化〉を再考する ――P・ルジャンドルを迎えて』(2004年、東京外国語大学大学院21世紀COEプログラム「史資料ハブ地域文化研究拠点」本部)、64頁

ここから大澤は例によって「第三者の審級」の議論にもっていく。人が「イメージという「他者の顔」を自己と等値する命令を、あらがいようもなく受け入れてしまう」ところには何か超越的な力の作用がある。そして旧約聖書において神の顔を見る者は死ぬことになっているように、この「第三項は、イメージとなることからの撤退という形式で、言い換えれば否定的な形式で、イメージとまさに関係している」何かである。つまり自己の同一化を可能にするようなシステムは、常に不可視の(表象不可能な)超越者を呼び込むことによって成立している、自己矛盾的、自己否定的な性格を内包しているというわけだ。
もっとも大澤は、鏡の機能の自明性を疑いつつも、その自明性を「あらがいようもな」いものと前提したところから議論を進めている。ところがダンスと鏡ということを考えていて気がついたのは、鏡というものが身体とイメージ(自己と他者)との「同一化」という運動を引き起こすのであるなら、それは同時に「差異化」でもなくてはならないだろうということ、つまり鏡像とは、身体=自己に「似ている」という認識であると同時に、「違う」という違和感でもあるだろうということだ。同一化と差異化とが、差し当たり未決定のまませめぎ合っているような状態こそが、鏡の(前ドグマ的な)経験である。だから強烈な同一化があるところには、必ず強烈な違和感、あるいは反発への傾向、さらには差異化への可能性が潜んでもいる。このような相矛盾した力の総体を一括りにして「強度」とよぶなら、ダンスが身体に働きかけ、伝染する時、それは同一性の経験であると同時に差異の経験でもあることになる(ただしこれらはあくまでも静態的な構造として捉えられた二極であって、反復と差異の継起的な関係とは別)。またむしろ反対に、そのような強度の経験があるところに、後から同一化/差異化のモメントが入ってきて、何らかの外的な力学のもとに同一性や差異へと帰結していくのだという風に考えることもできる。鏡とダンスの問題はさらに「模倣」、「リアリズム」ということとも関わってくるだろう。