制度としてあるダンスがいくら繰り返されても、そのごく一部のみが、見る者の体を実際に揺り動かす「ダンス」たり得るに過ぎないのと同じように、演劇もまた実は「演劇」として成立するのはごく稀なのではないかと思う。ダンスを見て「芝居がかっている」とかいう時、「芝居」すなわち演劇は一種の仮想敵として極度に単純化されているけれども、じゃあそんな「芝居がかった」芝居を喜んで見るのが演劇の醍醐味なのかというとそんなわけはなく、ダンスの場合同様、膨大な量の演劇の中のごく一部が「演劇」としてその力を発揮し、そのレアな輝きを人々は「演劇」とよんでいるのに違いない。ダンスと違って演劇にはなまじ「意味」があるだけに、この輝きの価値は見過ごされやすいだろう。
表象というものが、視覚的に対象化されたイメージのことだとしても、それはやはり表象という一つの行為であり、アクションなのであって、行為、アクションとして、イメージを作り出す(表象する)者の身体と、見る者の身体とに関わりをもつのでなければ、やはり有効とはいえない。例えば、「民族問題ですか、大変ですね」で終わる。
2年前にシンガポールに行った時に、チケットが売り切れていて見られなかったネセサリー・ステージを、ようやく見ることができて、これはとても良かった。本国では「政治的なテーマを扱った時はチケットがすぐに売り切れ、そうでない時は売れ残る」というのも納得で、何しろ自分たち(演者、観客)のリアリティを語っているから「面白い(interesting)」というだけでなく、観客一人一人が自分の「身体」(社会的かつ個人的な)について考えざるを得ないように書かれていて、「見せる」ものでありながらスペクタクルではなく、こちらの身体に触れてくるし、「関心(interest)」に訴えて、揺さぶってくる。「演劇」にも色々な面があるけれども、これは「演劇」だと、こういう演劇なら見たいと思った。大体 Necessary Stage という名前が良い。これは恐らく、「なくてはならない演劇」が、ニーズに応えるものとしてある(我々は手に入れた)というニュアンスなのだと思うけれども、Unnecessary Stage が多過ぎる東京ではまた別の意味に聞こえる。つまりそれは「必然性のある演劇」であって、「別になくてもいい演劇」とは全然違うものなのだ。
「アジアダンス会議」の報告書作りがようやく終了。これは、いまだ誰もたどりついたことのない思考、口にしたことのない言葉、想像されたことのない可能性がたくさん詰まった本で、一般の書店には並ばないが、販売されるので、ぜひ多くの人に(これを必要とする人々の内のできるだけ多くの人に)読んでみてもらいたいと思う。
とはいえ報告書の仕事をやり残したまま、関西へ、そして沖縄へ出かけたりしていた。初めての沖縄でありながら、例によってまた、国際通りのネットカフェで明け方近くまで仕事をしたりして、Oさんには締切を過ぎて迷惑をかけてしまったが、アジア会議の最終日に来て頂いた沖縄県立美術館の前田さんともお会いし、今後のことなど相談しつつ、実質わずか二日の間に沖縄の多様な側面(例えば古琉球から米軍基地まで)を駆け足で見て回り、刺激を受けた。ここには(まだ)資本に乗っ取られていない、様々な生きた「ニーズ」があるのではないかと思った。